ビタミンの発見

ビタミンはどのようにして発見され、命名されていったのか。

ビタミンの発見については、筒井康隆が「ビタミン」という大変奇妙な短編を書いております(『国境線は遠かった』所収)。これはビタミンが発見され、「A、B、C、、、」と増えていく過程を、どこまでホントなのかわからない(ヘタすると全部捏造かも)引用をつなぎ合わせてストーリーに仕立て上げたもの。

国境線は遠かった (集英社文庫)

国境線は遠かった (集英社文庫)

ここでは、筒井氏の文章はあんまり信用せずに、インターネットで確かめられたことを中心に書いていきましょう。

まず、ビタミンというのは、健康を維持する上で微量ではあるが必須な物質で、体内において特定の酵素と結合して酵素が正常に働けるように補助するもののこと。なぜ必須かというと、体内で合成されないからです。

ただし、「必須」の部分はビミョウで、元々は必要不可欠だったのだが、「ビタミンEは本当に人間の生体活動にとって必要不可欠なのか」とか、色々ともめるうちに「重要な物質」であればビタミンでいいや、という意見もあるっぽい。

さて、ビタミンの発見というとき、次の3つを区別しないといけない。

  1. のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見
  2. 当該物質がビタミンの定義を満たすことの証明
  3. ビタミンという名前の発案

このうち誰の目にも明らかなのは(3)。ポーランド人科学者フンクFunkとイギリス人科学者ドラモンドDrummondが、ビタミンという名前発案の功績をめぐって争った。最初にビタミンという言葉を作ったのはフンクで、1912年のこと。生命活動に不可欠な(vital)アミン(amine)ということで、そこでは「Vitamine」とつづられていた。ちなみにアミンは炭化水素基にNH2がくっついたものの総称らしい(←全く自信なし)。このときフンクが追求していたビタミンは後のビタミンB1で、それはアミンだったのでVitamineという表記で問題なかった。

しかし、人間の生命維持に必要な有機物の全てがアミンであるわけではない。そんなこんなで表記をVitaminに直して、同時にアミン以外のものを含み、アルファベットを末尾に振るようにしたのがドラモンドだった。1920年壊血病の予防因子を抽出した(物質の特定は1928年Szent-Gyorgiによるらしい)ドラモンドは、人間の生命維持に必要な有機物を全てビタミンと呼ぶことを提唱した。従来動物実験で調べられてきた正常発育に必要な抽出物のうち、脂溶性のものをビタミンA、水溶性のものをビタミンB、自らが抽出した壊血病の予防因子をビタミンCと呼ぶよう提案したのである。

その後、化学的な分析が進むうちに、ビタミンB=水溶性ビタミンは幾つかの物質から構成されていることが明らかになったため、ビタミンBは1とか2とか番号を振られることになった。

ちなみに脂溶性ビタミンのほうは、ビタミンA1みたいなふうにはならなかった。たぶんこれは、ビタミンDとかEとかはそれぞれ特定の病気(欠乏症)を予防するためのものだったからでしょう。それと、筒井氏の引用(偽物?)の雰囲気では、ドラモンドがもともと水溶性ビタミンの研究者だったから、水溶性ビタミンの命名のほうはがんばって統制したけど、脂溶性のほうは統制しなかった結果なのかも。

ビタミンの命名と発見は1920年代に盛んに行なわれた。先に述べたように、1920年壊血病を防ぐ必須栄養素がビタミンCと命名されたが、1922年にはくる病を防ぐ必須栄養素がビタミンD、同年にはレタスに含まれ動物を繁殖させる必須栄養素がビタミンEと命名された。

ただ、ビタミンEはラットの繁殖には必要だけど、人間の繁殖に必要かどうかはビミョウで、ビタミンと呼んでいいものか一時問題になった。結局、ビタミンEは繁殖に必要かどうかはともかく、強い抗酸化作用をもって過酸化脂質の生成を抑制し、または過酸化脂質を分解して血液の流れがスムーズになる栄養素であるとして、今でもビタミンとみなされています。

三大栄養素にビタミンとミネラルを加えて五大栄養素というんですが、じつは五大も何も、もともと網羅的な分類。カロリーになるのが三大栄養素、カロリーにならない(あるいはカロリーとしては意味がない)必須有機物がビタミン、カロリーにならない(当たり前か)必須無機物がミネラルなのです。

こういうふうに考えると、今後も新種のビタミンが発見されそうだと思えるんですが、やっぱりありました。最近、理化学研究所のグループがピロロキノリンキノン(PQQ)という物質が補酵素として働いていて、ビタミンであることを明らかにしたとのこと。

http://www.brain.riken.go.jp/labs/mdmd/pqq/index-j.html

ああ、そうだ、ビタミン発見の(1)について触れてなかったねえ。のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見というのは、ビタミンという言葉ができる以前にはほとんどないです。

というのは、1900年頃から「化学的な抽出→投与実験」によって必須栄養素を特定しようとする一連の研究が始まり、その直後にビタミンという言葉ができたため。ビタミンという言葉は、微量栄養素の研究推進のキーワードとして成立したわけです。

1910〜20年頃の段階では、ビタミン研究は、

  1. 化学的操作により食物から成分を抽出する
  2. 抽出物を動物に投与したり、しなかったりして必須性を証明する
  3. 必須である抽出物を化学的に分析し、物質構造を明らかにする

という順序で進められていた。

その後、実験的投与では必須性の証明には不十分だとされ、ビタミン認定にはそれが生体内で補酵素として働いていることの立証が必要とされるようになった(たぶんビタミンEの騒ぎの結果でしょう)。理化研がPQQで成しとげたのは、この生体内での作用の立証のわけです。

こういう感じなのだが、「(1)のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見」に該当する例が一つだけある。「ビタミン」という名称ができる前の段階で、後にビタミンB1とされる物質(チアミン)は抽出されていた。この辺の話には日本人として触れておかなきゃいけない。

1897年、オランダのエイクマンEijkmanが米ぬか投与によって脚気が予防できることを実験的に示した(のちにノーベル賞)。それ以降、抗脚気物質の化学的研究が世界中で行なわれ、1912年にビタミン(eが入るほう)という名前を作ったフンクが、米ぬかから抗脚気物質を抽出することに成功した。

でも、実はその2年前の1910年、日本の栄養化学者である鈴木梅太郎(東京帝大農学部教授)が抗脚気物質の抽出に成功していた。でも、この成功は日本国内でしか報告されず、国内でもあまり注目されなかった。

この物質は「オリザニン」として三共が商品化し、当初はあまり売れなかったけど、ヨーロッパでビタミンが話題になるのに伴い、順調に売上げを伸ばしたとのこと。

http://www.sankyo.co.jp/medemiru/info/fresh/vb/vb01.html
http://www.sankyo.co.jp/company/profile/history/history06.html

そうそう、ビタミンB1の発見については色々なステップがあるので、あんまり単純化してもいけない。

とりあえず、脚気を防ぐ方法は1880年代にはすでに疫学的には明らかになりつつあった。海軍の軍医総監だった高木兼寛が、イギリス留学で学んだ疫学的知見に基づいて食事改善を行ない、海軍から脚気を駆逐した話は有名です。

その上で、エイクマンによって、米ぬかの投与で動物の脚気(っぽい病気)を予防できることが実験的に示され、さらに鈴木やフンクによって、米ぬか中の抗脚気成分が抽出されたわけです。

ただ、この段階では単一の物質だけを取り出すことに成功してたわけじゃなく、似た性質を持つ物質をまとめて取り出していただけでした。下サイトによれば(胡散臭くない情報を得るためには最高のサイト)、「1926年Jansenらにより結晶が得られ、その約10年後Williamsらにより化学構造の決定、化学合成がなされました」。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vsojkn/gen-vit01.htm

これによって、初めてビタミンB1チアミンという物質であることが明らかになったわけです。だから、「鈴木がビタミンB1を発見」とまで書いてしまうのは、やや行き過ぎのきらいがある。

社会学でよく引用される研究者(分布図/配置図)

また共引用分析をやってみました(詳しくは科学技術社会論(STS)研究者の分布図を参照)。今度は、世界の社会学者について、どのような近隣関係があるのか図示するのが目的。

British Journal of Sociologyに掲載された1992〜2006年の論文が元データ。なぜBJSか。アメリカの雑誌は、アメリカ系の社会学者の名前ばかりでよくわからん、というのが第一の理由です。その点、BJSはヨーロッパ系とアメリカ系の両方が挙がっていて、(日本の社会学から見て)バランスが合っている(気がする)。

今回は研究者間の距離を測る指標として、コサイン関数の逆数を用いた(Ciは研究者iが引用された回数、Cijは研究者iと研究者jが同じ論文中で引用された回数)。

 \frac{sqrt{c_i c_j}}{c_{ij}}

これだと、同時に引用された回数が0のときに無限大になってしまうので、その場合には共引用数が1以上の中での最大値52.65として処理した。

こうして得られた研究者どうしの共引用距離の行列を、多次元尺度法で分析して2次元に配置した。

共引用分析の常として、近いところにいる人が仲良しとは限らない。ただ、何らかの意味で近いテーマであることはある程度確かではないかと*1

で、分析結果。

まず対象としたのは、被引用回数12回以上(同一論文での複数引用は1回とみなす)の著者100人。

ちなみにベストファイブは順に、ギデンズ、ブルデューヴェーバー、ゴールドソープ、ベック。ギデンズはともかく(イギリスだからね)、階級・階層論に関わっている人ばかりだな。

名前 引用回数 コメント
ABERCROMBIE N 16  
ALBROW M 13  
ALEXANDER J 20  
ANDERSON B 17  
BAUMAN Z 47  
BECK U 52  
BECKER G 18  
BELL D 20  
BERGER P 20  
BLAU P 16  
BOUDON R 12  
BOURDIEU P 75  
BREEN R 18  
BRUBAKER R 13  
CALHOUN C 16  
CASTELLS M 30  
COHEN J 17  
COHEN S 16  
COLEMAN J 26  
COLLINS R 28  
CROMPTON R 33  
DAVIS M 12  
DEX S 14  
DOUGLAS M 18  
DURKHEIM E 42  
EISENSTADT S 13  
ELIAS N 31  
ELSTER J 17  
ERICSON R 12  
ERIKSON R 37  
ESPINGANDERSEN G 20  
FEATHERSTONE M 15  
FOUCAULT M 42  
GALLIE D 19  
GARFINKEL H 20  
GEERTZ C 12  
GELLNER E 22  
GIDDENS A 109  
GOFFMAN E 28  
GOLDTHORPE J 66  
GOULDNER A 18  
HABERMAS J 41  
HAKIM C 26  
HALL S 25  
HALSEY A 24  
HEATH A 30  
HELD D 12  
HIRST P 14  
HOBSBAWM E 17  
JENKINS R 12  
JESSOP B 15  
KUMAR K 13  
LASH S 26  
LATOUR B 27  
LEWIS J 16  
LIPSET S 20  
LOCKWOOD D 26  
LUHMANN N 28  
LYOTARD J 16  
MANN M 27  
MANNHEIM K 12  
MANNING P 14  
MARSHALL G 34  
MARSHALL T 22  
MARTIN J 12  
MARX K 24  
MCRAE S 14  
MCROBBIE A 13  
MERTON R 23  
MEYER J 13  
MILLS C 26  
MOUZELIS N 16  
OFFE C 16  
PAHL R 20  
PARKIN F 12  
PARSONS T 39  
PUTNAM R 15  
ROSE N 22  
RUNCIMAN W 13  
SAUNDERS P 21  
SAVAGE M 22  
SCHUTZ A 12  
SCOTT J 30  
SIMMEL G 24  
SKOCPOL T 13  
SMELSER N 12  
SMITH A 17  
SMITH D 25  
THOMPSON E 12  
TILLY C 18  
TURNER B 38  
URRY J 15  
WADDINGTON P 14  
WALBY S 17  
WALLERSTEIN I 18  
WEBER M 72  
WILLIAMS R 17  
WRIGHT E 19  
WRONG D 14  
YOUNG M 12  

次に、多次元尺度法で分析した結果。グルーピングはてきとうです。というか、知らない研究者が多すぎる・・・。もっと勉強せねば。

あるいは、グルーピングなしのはこちらからどうぞ。

ざざっと見た感じだと、以下の7つに分けられるのではないかと。

  1. 社会変動論:「近代化とは何か」を全体社会(?)の歴史分析から捉える。あるいは、ドイツ系。
  2. ポストモダン社会論:ポストモダン社会やそこでの諸問題、ナショナリズム現象を分析。あるいは、フランス系。
  3. ミクロ社会学:シンボリック相互作用論・現象学的社会学エスノメソドロジー+デュルケム社会学儀礼)+儀礼に注目した歴史分析。
  4. マクロ社会学:同時代的な視点からの大きな社会現象の分析。あるいは、アメリカ系。
  5. 合理的選択理論:やや広めに、方法論的個人主義という形で括ってみた。
  6. 経験社会学:実証系で重要な論者が集まっている。階層研究が多いが、ラベリング論のBECKERもいる。ちなみに、ASRやAJSを使って分析すると、こちらが主流になる。
  7. 福祉国家論・公共社会学:「富をいかに再配分し、弱者救済するべきか」を理論的・経験的に考える。

うーん、あんまりうまくないかなあ。科学社会学ほど業界になってないから色々と難しい。

それと、上の表は正確には研究者の受容されたイメージの分布図だね。有名な人はだいたい多様な面を持っているが、上の表では引用される文脈でのみ位置づけられている。あるいは、ブルデューアメリカ系の中にいるのは、彼がアメリカ流の研究をしていたことではなく、彼の研究がアメリカで広く受容されていることを示唆している(たぶん)。

*1:とはいっても、一側面からの分析にすぎないので、「これが世界の社会学の現状だ」などと、あんまりマに受けすぎないでくださいな。念のため。

百姓から見た戦国大名

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

面白い。

戦国時代を、重層的な支配関係(村、荘園領主、守護、国衆…)・自力救済(各層での武力行使)の中世社会から、一元的な支配関係(将軍→大名→家臣→村)・訴訟制(成敗権・武力の独占、上による裁き)の江戸社会へと社会システムが変化していく時期として捉える視点が斬新で、興味深かった。

戦国大名たちの振る舞い(戦いをしかけるなど)を、「英雄」たちの「決断」とせず、領国の社会状況(生産状況、村との関係)から説明しようとする視点も◎(社会学的には)。

  • 過去帳=日付ごとに物故者が記載される台帳
  • 江戸時代の飢饉時では、春〜夏(夏麦・米の収穫前)に死者が増えている→餓死と推定される
  • 中世末期・戦国時代はどの年でも春〜夏に死者が多い→慢性的な飢饉状態
  • 上杉謙信の関東侵攻は、飢饉対策という側面も(飢饉の年の収穫後に侵攻)
  • 甲斐の武田家が対外戦争をし続けたのも(信玄の代になってから滅亡まで国外で戦争し続ける)、慢性的な飢饉状況を解決するため

自律的な政治団体としての村

  • 村が、自らを庇護するものとして領主を自発的に選ぶ
  • 村が守られなければ、一方的に関係を破棄し、領主替えする(年貢を納める相手を替える)。あるいは、逃散してしまう
  • 大名どうしだけでなく、村どうしでも日常的に戦争が行われ、死者が出ていた(領地争いなど)
  • 個々の村どうしが同盟を結んで援軍を送りあったりしていた(合力)
  • 村どうしの抗争がうまく収まらず、そのまま領主どうしの抗争に発展することもあった

大名の家臣(国衆)も、大名があてにならないと勝手に主人を替えたりした。

将軍から所領を与えられても、そこから無事に年貢を徴収して支配できるかどうかは、自力に依っていた。領主(守護や荘園領主)どうしの調整をするのが室町幕府、領主と村の関係はあくまで領主の問題。

こうした重層性が次第に一元化していったのが戦国時代。農民一揆や武将の寝返り、大名の代替わり、検地などはこういう文脈で理解しないといけない。

というわけで、面白い本だし、しかも読みやすい。オススメです。

ただ、記述がやや不正確、というか推測が突然混ざるところに少し違和感も。

戦国大名があれほどまで侵略戦争を続けた根底には、慢性的な飢饉状況があったとみても、的はずれではなかろう。・・・羽柴(豊臣)秀吉が、日本列島を統一した直後から朝鮮侵略を行ったのも、その延長であったとみることができる。決して秀吉の個人的な政治観や感情によるものではなかったに違いない。(58、強調は引用者)

うーん、そこまで言わなくてもなあ・・・。

科学論の第三の波

今日は科学社会学の文献紹介。

H. M. Collins & R. Evans, “The third wave of science studies: Studies of expertise and experience”, Social Studies of Science, Vol. 32, No. 2 (2002), pp. 235-296.

科学社会学の第一人者が、これまでの科学論の流れを総括・批判して、今後の進むべき方向について議論している論文。

近年の科学論、サイエンス・スタディーズでは、専門家だけで行われがちだった技術的問題の意思決定を、いかに公衆に開くかばかりが論じられており(意思決定は開かれていれば開かれているほど良い、という暗黙の前提)、どこまで、誰に対して開けばいいのか、その線引きはどうするか、専門性と政治的権利はどう折り合いをつければいいのか、といったことは十分に論じられてこなかった。これからはそういう研究(専門性と経験の社会学Studies of Expertise and Experience)が必要ではないか、と主張している。

今後の方向性については、これでいいのかという疑問はあるが、問題提起としては非常に面白いのではないかと。そして、技術的問題の意思決定の局面で、科学と社会はどのような関係であるべきかという視点から、これまでの科学論、科学社会学の先行研究をうまく理論的にまとめていると思う。

まず、要約。

 これまでの科学論の諸研究は、公共の場で起こる技術的問題が、科学・技術だけで解決できるとは限らないことを示してきた。特に問題なのは、政治的な意思決定に求められるスピードは、科学的合意のえられるスピードよりもずっと速いという点である。こうした中で近年では、意思決定に関与する人の範囲を技術エリートに限定せず、その外に拡げていくことで政治的正統性も高まる、という考え方が優勢になってきた。
 これに対して我々は、こうした現状を、「正統性の問い」が「拡張extensionの問い」に置き換わった状況だと考える。「拡張の問い」とは、専門家と公衆の間の区別をなくしていき、誰でも技術的問題の意思決定に参加できるようにするべきだという考え方である。この「拡張の問い」を扱うには、科学論の側でも新しい「第三の波」の研究、具体的には、専門知と経験の研究(SEE)が必要になる。
 SEEの課題は、まず専門性に関する規範理論を作り、技術的問題の意思決定に関与する二つの仕方、すなわち政治的権利と専門性を腑分けして理解することである。そこでは、専門性もいくつかに分類して理解する必要がある。まずは「対話できるinteractive専門性」と「貢献をなしうるcontributory専門性」の区別が重要になる。科学についても同様に類型化していく必要がある。
 本論文では、Brian Wynneによるカンブリア州の牧羊業者の研究などの事例研究を参照しつつ、こうした新しい理論的アプローチの意義を示す。このアプローチでは、公衆の関与が求められる場合と、そうでない場合とを区別して論じることが可能になる。Appendixでは、公共の場での技術的意思決定の問題を扱った先行研究について検討する。

以下は、本文のあらまし。参考の便宜のために人名は緑色にします。

正統性の問いと拡張/外延の問い The Problem of Legitimacy and the Problem of Extension

技術的問題の意思決定は民主的プロセスに委ねるべきか、最善の専門的アドバイスに従うべきか。どうすれば正しいやり方でよい意思決定をすることができるのか。技術的意思決定に参加する人・集団の範囲は、どこまで拡げるのが妥当なのか(政治哲学的な議論についてはStephen Turnerを参照)。

技術的問題の意思決定の例:狂牛病原子力発電、ヒトクローン、地球温暖化など。

科学知識の社会学(SSK)などによって「真理」の限定性が明らかになった今日では、「科学者だけが真理を知ることができる」とは言えない。それでも科学者だけが持っているもの、科学者だけが果たせる役割があるのは確か。ここでは、それを「専門性expertise」と呼ぶ。

われわれの関心は、あくまで学術的なもの。専門性をどこまで拡張するべきか決めるための明確な判断基準を見つけるのが目的である。

科学論のそれぞれの「波」を非常に大雑把に言うと・・・

  • 第一の波:科学論にとって正統性*1が問題になることにさえ気づいていなかった。
  • 第二の波:正統性の問題には気づき、技術的意思決定の範囲を拡げることで答えたが、その結果として拡張の問題が代わりに浮上した。
  • 第三の波:拡張の問題に答えようとするもの。

本論文で使う言葉、表現 Language and Presentation

この分野では「素人専門家lay experts」という言葉がよく使われるが(Steven EpsteinのAIDS研究)、これは素人なのか専門家なのか曖昧だからやめよう。公的な認証制度はないが豊かな経験experienceがあり、それに基づく専門性を持った人のことを、「経験に基づく専門家experience-based experts」と呼ぼう。

ある意味で我々の言語能力や社交能力も「専門性」と言えなくもないが、そんなことを言ってもややこしくなるだけなので、ここでは社会の中で限られた一部の人(スペシャリスト)だけが持つものだけを「専門性」と呼ぶ。

科学の社会的研究の第三の波 Three Waves of Social Studies of Science

第一の波(1950〜1960年代)

  • 科学の成功・発展を理解したり、説明するための社会的分析
  • 科学の妥当性の基盤が疑われることはなかった

第二の波(クーン以降)

  • 社会構成主義(social constructivism)、科学知識の社会学(Sociology of Scientific Knowledge)
  • 科学・技術も社会的活動の一つであり、そこには「科学外的な要素」が必然的に含まれるという考え方
  • 科学的知識が社会の各場面においていかに使われているか、に焦点が当てられて研究が進んだ
  • ただし、科学の「社会的構築」が論じられるときは、「専門家」という称号をどの立場がえるか、が分析の焦点となった。

しかし、知識社会学者たちは自然科学者の専門性を恐れるべきでないし、むしろ自分たちが知識の領域では専門家であることを積極的に主張していくべきだと思う。知識に関する概念を構築していくのは、他でもない知識社会学者なのである。(239-240)

第二の波は「第一の波は学術的にだめだ」と言って取って代わったが、第三の波は第二の波に取って代わろうとするものではなく、両者は共存していくべきものである。

この論文がやろうとしていることは、相対主義という氷壁を登り切るために、氷壁自体が砕け散らないように十分に注意しながら、登山用のくぎを打ち込んでいくような作業だとも言える(科学論批判者の多くは、氷を破砕することが唯一の解決策だと考えているようだが)。(240)

ここで問題となるのは、科学論者が専門家をどうやって識別するかである。誰が本当の専門家だったかは事が全部過ぎてからやっと分かるものだ、専門家かどうかという事後的なラベル付けなんてどうでもいい、という主張にどう応えるか。

まず言えるのは、実際の意思決定の際には、科学的合意が得られていなくても、誰が専門家かは政治的プロセスの中で決められているということである。あとは、科学論者がどう関わるかだが、私の答えは、知識社会学者は歴史の結果が出てから振り返るだけでなく(川下の視点downstream)、自分自身ある種の専門家として論争に参加してもよいのではないか(川上の視点upstream)、というものである。実際、人工知能AIの問題では、私(H. M. Collins)も論争に加わった。

第二の波のような相対主義も必要だが、それだけでは不十分である。科学は政治などの領域で、どのような形で正統性を認められているのか。なぜ科学はその知識の性格ゆえに正統性を認められるべきだと言えるのか。こうした問いに答えることが、第三の波の課題である。

中心となる研究者たち、中心グループ、その背景 Core-Sets, Core-Groups, and their Settings

中心となる研究者たちcore-set → 合意形成 → 中心グループcore-group

誰がコアかは必ずしも明確でない。論争がある場合、それは誰が内で誰が外かの境界設定(boundary-work)にも関わってくるから(Thomas F. Gieryn)。

秘義的科学esoteric science = コアの専門家でなければ議論に参加し、発展に貢献できないような科学

科学と芸術 Science and Art

アバンギャルド(前衛芸術)と秘義的科学はどこが違うのか。

アバンギャルドでは、芸術作品を作る能力(創造型の専門性)と批評眼の鋭さ(作品を体験するのに必要な相互作用型の専門性)は必ずしも比例しない(批評家、消費者の存在)。ところが科学の場合、論文を書ける人だけが論文を真に必要とし、そういう人でないと論文を正しく評価できない。

政治は秘義的科学にも内在している Politics is Intrinsic to Esoteric Science, not Extrinsic

秘義的科学の場合にも、政治的要因は科学に関わってくる。コアな科学者グループも政治性を有しているため(Steven Shapinの19世紀エジンバラにおける'big-P'の研究)。

注意するべき点は、科学のコアの部分にも政治性が内在していて、それが科学に影響を与えているからといって、科学の外部から政治性を持ち込むことが正統化されるわけでは全くないということ。

コアの外 Beyond the Core

コアの研究者たちはたえず議論しているので、確信にたどり着きにくく不確実性を重視する。これに対し、その少し外、科学コミュニティの内部だがコアの外にいる人は、容易に確信を持ちやすい(Donald MacKenzieのUncertainty Trough論)。

科学論の第三の波? The Third Wave of Science Studies?

第三の波の議論が重視するのは、意思決定に参加する資格として、専門家としての資格rightsと、利害関係者としての資格は明確に区別しないといけないという点である。それでは、両資格のバランスをどう考えるか。

コアの外にある広範囲の科学コミュニティは、意思決定プロセスにおいてなんら特別な役割を果たさない(果たすべきでない)。

専門家として参加する資格を持つのは、(公式に認証された)コアの研究者たちと、公式な認証の仕組みはないものの、経験に基づく専門性を有する専門家たちexperience-based expertsである。

専門性の性質 The Nature of Expertise

経験と専門性 Experience and Expertise

「経験に基づく専門性」概念について。経験を有することは専門性を持つことの必要条件ではあるが、経験さえあれば専門性を持つ、というわけではない。専門性を持つと言えるには、(1)そもそもその領域がニセ科学ではないこと、(2)その領域の中で専門的実践者としてのスキル・経験を有すること、の二つが同時に満たされることが必要。

専門性の3形態 Three Types of Expertise

まず、専門性には3つのレベルがある。

  1. 専門性なし
  2. 相互作用型の専門性:当事者たちと専門分野について会話ができるレベル(←科学社会学者のレベル)
  3. 貢献型の専門性:その分野の発展、知識蓄積に貢献できるレベル

一見すると、(3)を持っていれば(2)も自動的に持っていそうだが、そうではない。

Brian Wynneの分析したカンブリア州の農業者たちは、自分たちの飼っている羊の生態に詳しく、その知識を使えば放射能汚染から羊をできるだけ守ることが可能だったが、科学者たちは農業者たちからアドバイスを受けることに消極的だった。

ここで重要なのは、農業者たちが自らの科学(=よい牧羊)に貢献し、それを進めていく上では、科学者たちと対称的な形で対話する必要はなかったということだ。対話をして、学ばなければいけなかったのは、科学の専門家のほうだった。この非対称性は一見すると些末な点だが、ここから我々は専門性とは何か、そしてどのような社会的変化が必要なのか、を学ぶことができる。カンブリア羊の事例で求められていたのは、科学者と農業者という二つの異なる貢献型専門性を結び付けることだった。科学者の専門性を農業者の専門性によって置き換えることではなく、科学者の専門性に、農業者の専門性を付け加えることが求められていた。科学者と農業者が対称的な位置にいれば、科学者が農業者から吸収しようが、農業者が科学者から吸収しようが関係ないが、実際には両者の関係は対称的ではなかった。この事例で最善の結果を得るには、科学者は農業者の専門性を吸収するための相互作用型の専門性を持っていなければならなかった。しかし、彼らは相互作用型の専門性を持とうとも使おうともしなかった。

ここから導かれる命題は、

命題1:二つの貢献型の専門性を結び付ける際には、必ず専門性を提供する側と吸収する側があって、吸収する側が相互作用型の専門的能力を有している必要がある。提供する側は必ずしもその必要はない。
命題2:専門性どうしの結び付けがうまく行くかどうかの責任は、もっぱら吸収する側にある。
命題3:ただし、提供する側でも相互作用型の専門性を有する第三者が関わり、その第三者が代理して主張を述べることで、専門性の結び付けをより確かなものにすることは可能である。

この第三者としては、グリーンピースの科学者とか、Brian Wynneのような社会学者とかが考えられる。彼らは、農業者たちから専門的事柄を学んだ上で、それを科学者に伝わりやすい表現に直して伝える。こうした作業の重要性は、アメリカのエイズ患者が自らの立場を科学者に伝えるために、科学の言語を学んだという事例(Steven Epstein)からも見てとることができる。

関与型の専門性 Referred Expertise

大規模プロジェクト(重力波の検出など)でのマネージャーは、必ずしもそのプロジェクトに対して貢献型の専門性を有するわけではない。かといって、そのプロジェクトを観察に来る社会学者が持っているレベルの専門性(相互作用型の専門性)にとどまるわけでもない。マネージャーは、プロジェクトの管理運営という関連領域での経験に基づく専門性を持っていると考えられる。これを「関与型の専門性referred expertise」と呼ぼう。

翻訳 Translation

技術的意志決定を行う際には、二つの能力が少なくとも必要である。一つは翻訳能力、もう一つは識別能力である。

命題4:技術的決定を行うには複数の専門分野の間での翻訳が必要になるが、翻訳が可能になるための必要条件(ただし十分条件ではない)は、各分野での相互作用型の専門性を有していることである。

実際に翻訳がうまく行くには、相互作用型の専門性に加えて、ジャーナリストや教師のような能力も必要になる。

識別 Discrimination

識別能力とは、専門家が誠実に発言しているかとか、自分の専門分野以外のことに口を出していないかとか、専門家の発言がそもそも内部矛盾していないかとか、誰が専門家かとか、そういったことを識別する能力である。

特に専門家かどうかの識別が重要。これには、べつに専門分野について深く知っている必要はなく、明らかに専門家である人たちの社会的・認知的ネットワークとの距離から読みとることができる。

科学「一般」についての専門性など存在しない The Lack of Expertise of the Wider Scientific Community

各人の専門範囲の外にある事項については、科学者は何ら専門性を有してはいない。しかし、これまでしばしば、科学者は自分の専門外の事項についても一般人とは異なる扱いを受けてきた。これは大きな誤りであって、広い意味での科学者コミュニティwider scientific communityと一般人との間には何の境界もないと考えるべきだ。第二の波の議論は、科学者一般が持つ「科学的な思考法」のようなものでは科学は動いていないことを明らかにして、科学者一般が素人とは異なる能力を持つことを否定した。

科学者一般と公衆は大学のポストなどの公的な要素で区別できたが、コアグループの専門家と科学者一般とを区別するのは、実際にその分野の経験をしているかとか、それまでの経験、お互いがそう認めるかどうかといったインフォーマルな要素である。そのため、公的に認証された専門性と経験に基づく専門性という区別はここでは有効ではない。どちらも同じく、貢献型の専門性として捉える。

事例研究 Case Studies

相互作用を増やすべき事例:カンブリア州の羊、サンフランシスコでのエイズ治療

Brian Wynneの分析したカンブリア州の羊の事例。ここで重要なのは、農業者たちが技術的決定に関与するのは、彼らが羊の所有者であるという政治的権利を有するからだけでなく、固有の専門性を有しているからでもあるという点である。仮に農場の所有者がロンドンの証券マンだったとしても、なお農業者たちは決定に関与するべきである。

サンフランシスコのゲイコミュニティにおけるAIDS治療論争(Steven Epstein)。患者たちは科学の言語を学ぶことで(=相互作用型の専門性の獲得)、ようやく自らの利害を科学者に向けて主張することが可能になった。望むらくは、もっと容易に患者たちが利害を主張できるように、翻訳する中間グループが発展していくことである。

相互作用を減らすべき事例:核燃料運搬容器の衝突実験と航空機事故

第二の波の議論はみな同じ方向を向いていた;公衆の参加を増やせば、正統性の問題は解決する。しかし、実際はそう単純ではない。貢献型の専門性を持たない公衆の参加は減らしたほうがいい事例だって存在する。

核燃料運搬容器に電車がぶつかっても大丈夫、というデモンストレーション。一見すると、すごい衝撃にも耐えられるのだから安全、とも思えるが、このデモが実際のリスクを評価する上でどういう意味を持つかは、実験の細かい設定を理解できる専門家にしかわからない。

他方、航空機の燃料タンク引火事故の場合、見た目の炎の大きさほど、事故は大規模ではないことも多い。これも、専門家にしかわからない。

こういう場合に、識別できる眼を持たない公衆を参加させることは、専門家どうしで議論を深める機会を設けないまま、議論を打ち切ることを意味しかねない。専門家だけで議論するのが良い結果につながる場合もあるのだ。ここで言う専門家には、行政側の専門家だけでなく、運動側(Greenpeaceなど)を代表する専門家も当然含まれる。

相互作用を理解する:手品師とバンヴェニスト

常温核融合ホメオパシーとか水の記憶とか。超心理学parapsychologyとそれを利用する手品師たち。

こういうのを前にすると、コアグループによる科学的検討を経ないで直ちに「間違っている」と言いたくなるが、科学であるためには研究作業による裏付けが必要。これを安易に放棄して「間違っている」とご託宣してしまうのは、実際に研究しているコアグループとそれ以外のスペシャリストの区別を見えなくするので、できれば避けたい。

科学技術の諸形態 Different Types of Science and Technology

一般の人が使う技術なので、彼らが必然的に専門性を持つ事例:自動車、自転車、パソコン

地域的な利害の絡む技術なので、その地域の人が必然的に専門性を持つ事例:地域計画

秘義的科学と論争的科学 Esoteric and Controversial Science/span>

  • 通常科学normal science:明確なコアセットが存在する科学。
  • ゴーレム科学golem science:将来的にはコアセットができうるが、まだ十分に閉じていない状況の科学。遺伝子組み換え作物の食品安全性の研究や、狂牛病BSE)とクロイツフェルトヤコブ病の関係の研究など。科学の領分と政治の領分の間のバランスが重要になる。
  • 歴史的科学historical sciences:歴史的変化の問題を扱う自然科学。地球温暖化や、遺伝子組み換え作物による生態系への影響など。こういう複雑で反復しない問題については、明確なコアセットが形成されることは期待できない。
  • 再帰的・歴史的科学reflexive historical sciences:歴史的なうえに、人間の行為の結果によって影響されるような科学。地球温暖化もその例。

環境問題で論争が起こるとき、ゴーレム科学と歴史科学は、どちらも不確実性を抱えている点では共通しているが、ゴーレム科学では将来的に確実な知見が得られる見込みがあるのに対し、歴史科学はそうでない点で異なる。そのため、歴史科学では専門家と非専門家を融合させるような持続的な組織が重要になる。

結論

*1:正統性=意思決定が社会全体の中で、正しい、理にかなっていると認められること。

ウェーバーと「事実をして語らしめる」

前にGoogleの政治性について書いたときに、マックス・ヴェーバーの「事実をして語らしめる」を引いて書いたら*1、それ以来、検索で来る方がたくさんいらっしゃいます。

で、さっそくGoogleで検索してみたら、たしかにネット上じゃあまり見つからない。というわけで、専門家ではないけれど、ちょこっとだけご案内。

「事実をして語らしめる」というと、事実を事実として伝える、事実の裏付けをもって語る、という感じで、よいこととして理解されがちである。たしかにこれらは、普通に考えると悪いことではないし、多くの場合望ましいだろう。

しかし、ヴェーバーやその流れにある社会科学基礎論の文脈では、そのへんをもう少し突き詰めて考える必要がある。
ここで問題になるのは、教師が教壇から語る場合に、「事実をして語らしめる」のが正当かどうか、という点。議会演説など、他の場面での振る舞いはとりあえず論点になっていない点に注意が必要。大学教師は教壇においてどのように振る舞うべきか。どうするのが学問的な態度と言えるのか。

この問いを取り上げたのがウェーバーの『職業としての学問』である。もともと1919年1月にミュンヘンで行った講演を起こしたもの。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

教室では、たとえば「民主主義」について語るばあい、まずその種々の形態をあげ、そのおのおのがそのはたらきにおいてどう違うかを分析し、また社会生活にとってそのおのおのがどのような影響を及ぼすかを確定し、ついで他の民主主義をとらない政治的秩序をこれらと比較し、このようにして聴講者たちが、民主主義について、各自その究極の理想とするところから自分の立場をきめるうえの拠りどころを発見しうるようにするのである(48-9)。

このあと、以下のように続く。

このばあい、まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を――あからさまにしろ暗示的にしろ――強いるようなことのないように用心するであろう。なぜなら、「事実をして語らしめる」というたてまえにとって、このような態度はもとよりもっとも不誠実なものだからである(49)。

ここが「事実をして語らしめる」の部分。尾高訳では、学問のたてまえとして、「事実をして語らしめる」ことに対して肯定的な評価が与えられ、それに反する態度こそが不誠実だとされている。

これに対し、折原浩氏は下記の本の解説(ヴェーバー理論の詳しい解説になっている)で、次のように訳すべきだと述べている(320-1)。

まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を――あからさまにしろ暗示的にしろ――強いるようなことのないように用心するであろう。・・・「事実をして語らしめる」[すなわち、価値判断を価値判断としてフェアに明示するのでなく、抗いがたい既成事実に見せかけ、価値判断と事実判断との混同に誘い、既成事実への屈服を強いる]とすれば、それはもとより、もっとも不誠実なやり方である。

ここでは、「事実をして語らしめる」ことが、事実を事実として語るという意味ではなく、事実判断と価値判断を混ぜて語ることとして捉えられ、ヴェーバーはそれを不誠実だと批判しているという形で訳されている。

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

これに対する再批判というのもあるかもしれないけれど、私は今のところ把握していないです。

「事実をして語らしめる」あたりのことはなかなか複雑な問題もあるけれど(科学認識論としても、教育論としても、社会科学論としても)、それはまた別の機会に考えることにして、今日は情報提供だけで。

***コメントのほうもぜひご覧ください***

*1:アルゴリズムをして語らしめるGoogle」みたいに書いたような気がするのだが、あんまり文脈に合ってなかったので、すぐに削除した。

科学技術社会論(STS)研究者の分布図

科学社会学、STSでよく引用される研究者の続き(みたいなもの)。

科学技術社会論STS)・科学社会学のトップジャーナルにおいて、どの研究者とどの研究者が一緒に引用されることが多いかを調べる。似たような研究ほど同時に引用されることが多いと考えられるから、これを調べることで、いまどのような研究潮流があるのか、大まかに見て取ることができるはず。

とはいっても、あんまり真剣にやっていないので、参考程度に。

元データは前回記事と同じ。Social Studies of ScienceScience, Technology & Human Valuesから(1995〜2006年末ごろ)。上位60人(被引用回数32回以上)を分析対象とする。

研究者同士の距離は以下の式で測る。

(研究者Aの被引用回数*研究者Bの被引用回数)^0.5/(AとBが同時に引用された回数+0.2)

0.2は、距離が無限大にならないように、かといって逆転現象も生じないように適当に放り込んだ(このへんがいい加減)。

で、こうして得られた距離行列を、多次元尺度法を用いて分析して、結果を2次元上にプロットする。分析にはSPSSを用いて、結果をExcelを使ってプロットした。

多次元尺度法については下記サイトを参考にした(だけ。なので、ここで使うのが妥当かどうか自信なし)*1

http://www.interq.or.jp/pluto/tunes/scale.html

さて、分析結果だが、おおむね以下の5グループに分けられた。

  1. 科学哲学、認識論、エスノメソドロジー(イギリス・フランス系?)
  2. 科学知識の社会学(SSK)、アクターネットワーク理論
  3. 科学技術の歴史的・社会学的研究
  4. リスク社会論
  5. 科学社会学の古典的文献(アメリカ系?)

抽象的な認識論的研究(1)と、具体的な対象を取り上げた研究(3)の間に、両者をつなぐ理論(2)が存在している、というのが中心的な構造。

そして、こうした中心的な構造とはやや離れて、リスク社会論(4)が存在している。リスク社会論は、どちらかと言えば具体的研究(3)と距離が近い。

科学社会学の古典(マートン、バーンズ)については、認識論系とアメリカ系の両方に引用されるから、真ん中あたりに来ている。Greg Myers(Writing Biology: Texts in the Social Construction of Scientific Knowledge)も同様か。

ちなみに、こういう分析のことを科学計量学の分野では「共引用分析」と呼ぶらしい。

研究評価・科学論のための科学計量学入門

研究評価・科学論のための科学計量学入門

初めから調べておけばよかったのだが、この領域では以下の2つで距離を測るのが主流らしい。で、その結果を、クラスター分析や多次元尺度法にかける(70頁)。コサイン関数をちょっと(非論理的に)いじくったのが、上で私が使った分析法ですな。

Jaccard係数

 \frac{c_{ij}}{c_i + c_j - c_{ij}

コサイン関数

 \frac{c_{ij}}{sqrt{c_i c_j}}

*1:基本的に、これも主成分分析・因子分析・コレスポンデンス分析と同じ系列に属するものらしいので、そのうちまとめて数学的なことを勉強する予定(いつになるやら)。

税金をいつの間にか増やす方法

一度も増税に関する議論をしないまま、税金をいつの間にか増やす方法。

その1。税制の合理化や地方分権という題目のもと、増税になるような制度改革を行った上で、「移行措置」や「調整」を設けて、とりあえずの税額は変わらないことにする。この段階では政治家が前面に出て、制度改革のよさや、税額が変わらないことをアピールする。

市民税・県民税が増えても、所得税が減るため、納税者の負担は変わりません。

http://www.city.himeji.hyogo.jp/zeimu/kojin/kaisei19.html

この税源移譲に伴い、個々の納税者の負担が極力変わらないようにするため、所得税の税率構造の改正や、個人住民税の調整控除、住宅ローン控除制度の創設などにより調整をおこないます。(強調は引用者)

http://www.city.funabashi.chiba.jp/shiminzei/shiminzei/kaisei1801.htm

その2。「移行措置」や「減税」、「調整」はもともと一時的なものだったのだから、予定どおり取り払いますね、でも制度は何も変わりませんよ、と言って、減税措置をなくす。この段階では、行政ががんばって広報して、政治家はあまり関わらない。

最近だと、定率減税の撤廃がこれに当たるような。かつては定率減税も恒久的措置と言われていた気がするぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E7%8E%87%E6%B8%9B%E7%A8%8E

とは言っても、今の景気動向や今後の社会情勢を考えると、ある程度の増税はやむをえないのだが、こういうやり方はなんかちょっとなあ。そして、こうやって増税しておきながら、他方で高所得者にかかる税金(株関連とか相続税とか)は減らそうとするのは、あんまり納得いかないのだが。