ビタミンの発見

ビタミンはどのようにして発見され、命名されていったのか。

ビタミンの発見については、筒井康隆が「ビタミン」という大変奇妙な短編を書いております(『国境線は遠かった』所収)。これはビタミンが発見され、「A、B、C、、、」と増えていく過程を、どこまでホントなのかわからない(ヘタすると全部捏造かも)引用をつなぎ合わせてストーリーに仕立て上げたもの。

国境線は遠かった (集英社文庫)

国境線は遠かった (集英社文庫)

ここでは、筒井氏の文章はあんまり信用せずに、インターネットで確かめられたことを中心に書いていきましょう。

まず、ビタミンというのは、健康を維持する上で微量ではあるが必須な物質で、体内において特定の酵素と結合して酵素が正常に働けるように補助するもののこと。なぜ必須かというと、体内で合成されないからです。

ただし、「必須」の部分はビミョウで、元々は必要不可欠だったのだが、「ビタミンEは本当に人間の生体活動にとって必要不可欠なのか」とか、色々ともめるうちに「重要な物質」であればビタミンでいいや、という意見もあるっぽい。

さて、ビタミンの発見というとき、次の3つを区別しないといけない。

  1. のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見
  2. 当該物質がビタミンの定義を満たすことの証明
  3. ビタミンという名前の発案

このうち誰の目にも明らかなのは(3)。ポーランド人科学者フンクFunkとイギリス人科学者ドラモンドDrummondが、ビタミンという名前発案の功績をめぐって争った。最初にビタミンという言葉を作ったのはフンクで、1912年のこと。生命活動に不可欠な(vital)アミン(amine)ということで、そこでは「Vitamine」とつづられていた。ちなみにアミンは炭化水素基にNH2がくっついたものの総称らしい(←全く自信なし)。このときフンクが追求していたビタミンは後のビタミンB1で、それはアミンだったのでVitamineという表記で問題なかった。

しかし、人間の生命維持に必要な有機物の全てがアミンであるわけではない。そんなこんなで表記をVitaminに直して、同時にアミン以外のものを含み、アルファベットを末尾に振るようにしたのがドラモンドだった。1920年壊血病の予防因子を抽出した(物質の特定は1928年Szent-Gyorgiによるらしい)ドラモンドは、人間の生命維持に必要な有機物を全てビタミンと呼ぶことを提唱した。従来動物実験で調べられてきた正常発育に必要な抽出物のうち、脂溶性のものをビタミンA、水溶性のものをビタミンB、自らが抽出した壊血病の予防因子をビタミンCと呼ぶよう提案したのである。

その後、化学的な分析が進むうちに、ビタミンB=水溶性ビタミンは幾つかの物質から構成されていることが明らかになったため、ビタミンBは1とか2とか番号を振られることになった。

ちなみに脂溶性ビタミンのほうは、ビタミンA1みたいなふうにはならなかった。たぶんこれは、ビタミンDとかEとかはそれぞれ特定の病気(欠乏症)を予防するためのものだったからでしょう。それと、筒井氏の引用(偽物?)の雰囲気では、ドラモンドがもともと水溶性ビタミンの研究者だったから、水溶性ビタミンの命名のほうはがんばって統制したけど、脂溶性のほうは統制しなかった結果なのかも。

ビタミンの命名と発見は1920年代に盛んに行なわれた。先に述べたように、1920年壊血病を防ぐ必須栄養素がビタミンCと命名されたが、1922年にはくる病を防ぐ必須栄養素がビタミンD、同年にはレタスに含まれ動物を繁殖させる必須栄養素がビタミンEと命名された。

ただ、ビタミンEはラットの繁殖には必要だけど、人間の繁殖に必要かどうかはビミョウで、ビタミンと呼んでいいものか一時問題になった。結局、ビタミンEは繁殖に必要かどうかはともかく、強い抗酸化作用をもって過酸化脂質の生成を抑制し、または過酸化脂質を分解して血液の流れがスムーズになる栄養素であるとして、今でもビタミンとみなされています。

三大栄養素にビタミンとミネラルを加えて五大栄養素というんですが、じつは五大も何も、もともと網羅的な分類。カロリーになるのが三大栄養素、カロリーにならない(あるいはカロリーとしては意味がない)必須有機物がビタミン、カロリーにならない(当たり前か)必須無機物がミネラルなのです。

こういうふうに考えると、今後も新種のビタミンが発見されそうだと思えるんですが、やっぱりありました。最近、理化学研究所のグループがピロロキノリンキノン(PQQ)という物質が補酵素として働いていて、ビタミンであることを明らかにしたとのこと。

http://www.brain.riken.go.jp/labs/mdmd/pqq/index-j.html

ああ、そうだ、ビタミン発見の(1)について触れてなかったねえ。のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見というのは、ビタミンという言葉ができる以前にはほとんどないです。

というのは、1900年頃から「化学的な抽出→投与実験」によって必須栄養素を特定しようとする一連の研究が始まり、その直後にビタミンという言葉ができたため。ビタミンという言葉は、微量栄養素の研究推進のキーワードとして成立したわけです。

1910〜20年頃の段階では、ビタミン研究は、

  1. 化学的操作により食物から成分を抽出する
  2. 抽出物を動物に投与したり、しなかったりして必須性を証明する
  3. 必須である抽出物を化学的に分析し、物質構造を明らかにする

という順序で進められていた。

その後、実験的投与では必須性の証明には不十分だとされ、ビタミン認定にはそれが生体内で補酵素として働いていることの立証が必要とされるようになった(たぶんビタミンEの騒ぎの結果でしょう)。理化研がPQQで成しとげたのは、この生体内での作用の立証のわけです。

こういう感じなのだが、「(1)のちにビタミンと呼ばれることになる物質の発見」に該当する例が一つだけある。「ビタミン」という名称ができる前の段階で、後にビタミンB1とされる物質(チアミン)は抽出されていた。この辺の話には日本人として触れておかなきゃいけない。

1897年、オランダのエイクマンEijkmanが米ぬか投与によって脚気が予防できることを実験的に示した(のちにノーベル賞)。それ以降、抗脚気物質の化学的研究が世界中で行なわれ、1912年にビタミン(eが入るほう)という名前を作ったフンクが、米ぬかから抗脚気物質を抽出することに成功した。

でも、実はその2年前の1910年、日本の栄養化学者である鈴木梅太郎(東京帝大農学部教授)が抗脚気物質の抽出に成功していた。でも、この成功は日本国内でしか報告されず、国内でもあまり注目されなかった。

この物質は「オリザニン」として三共が商品化し、当初はあまり売れなかったけど、ヨーロッパでビタミンが話題になるのに伴い、順調に売上げを伸ばしたとのこと。

http://www.sankyo.co.jp/medemiru/info/fresh/vb/vb01.html
http://www.sankyo.co.jp/company/profile/history/history06.html

そうそう、ビタミンB1の発見については色々なステップがあるので、あんまり単純化してもいけない。

とりあえず、脚気を防ぐ方法は1880年代にはすでに疫学的には明らかになりつつあった。海軍の軍医総監だった高木兼寛が、イギリス留学で学んだ疫学的知見に基づいて食事改善を行ない、海軍から脚気を駆逐した話は有名です。

その上で、エイクマンによって、米ぬかの投与で動物の脚気(っぽい病気)を予防できることが実験的に示され、さらに鈴木やフンクによって、米ぬか中の抗脚気成分が抽出されたわけです。

ただ、この段階では単一の物質だけを取り出すことに成功してたわけじゃなく、似た性質を持つ物質をまとめて取り出していただけでした。下サイトによれば(胡散臭くない情報を得るためには最高のサイト)、「1926年Jansenらにより結晶が得られ、その約10年後Williamsらにより化学構造の決定、化学合成がなされました」。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vsojkn/gen-vit01.htm

これによって、初めてビタミンB1チアミンという物質であることが明らかになったわけです。だから、「鈴木がビタミンB1を発見」とまで書いてしまうのは、やや行き過ぎのきらいがある。