サッカー選手の身長

ついでに、日本のサッカー選手は本当に体格がないのか、ちょっと調べてみた。身長のみ比較。

チーム名 マンU 浦和レッズ ジェフ千葉・市原 日本代表 ソフトバンク
平均身長 181.1 177.7 178.8 178.5 180.3
標準偏差 6.9 5.5 5.6 4.7 4.9

クラブチームは、トップチームの現段階(マンU*1は現戦力、Jリーグは目下の編成)、日本代表は2006年11月サウジ戦時の招集メンバー。ソフトバンク(野球チーム)は2005年度。

なぜマンチェスター・ユナイテッドか。ここでチェルシーとせずにマンUにしたのは、大きい選手が少なく組織で戦っている印象があったからだが*2、残念ながら?、それでもやはり日本のチームよりは有意に高そうである。

しかしまあ、日本の人口は1.2億人もいるんだから、これは身体能力が高い若者の、スポーツ間配分の問題のような気もする。で、プロ野球ソフトバンク・ホークス。こちらのほうがずっと身長が高くて、かなりマンUに接近している。

でも、標準偏差ではいずれもマンUには到底及ばない。野球はみんな同体格でいいからだとしても、日本チームの標準偏差はいかにも小さい。サッカーの場合、大きい人と小さい人が混ざっている(標準偏差が大きい)チームのほうが、なんとなく強そうな気がする。

あと、気になるのは、今の日本代表(たぶん昔も)のメンバーが、Jリーグの各チームと比べても、より同身長のグループに近づいていること(標準偏差が小さい)。Jリーグで展開されている(あるいは各チームの監督が目指す)サッカーが、178センチの選手だけが伸びやすいものだとしたら、それはちょっと問題かもしれない。

*1:http://hw001.gate01.com/devil-theater/mf.htmを参考にさせていただきました。(マンU好きにとっては)非常によいページだと思われます。

*2:ちなみに、オシムマンチェスター・ユナイテッドをべた褒めしている(147)。

サッカーにおける「ずるさ」

とりあえずは手がかり。サッカー評論家の金子達仁さんの講演記録から。

以前、柔道(ロス五輪金メダリスト)の山下泰裕さんにお話をうかがったときに、僕が一番感じたことは、ドゥンガ(元ブラジル代表、磐田)が言ってることと同じだなということだったんですよ。

 日本のサッカーはドゥンガをはじめとするブラジル人から、ズルさがない、経験がないとずっと言われ続けてきた。ところが山下さんは「国際試合の方が楽なんだ。日本の柔道に比べてズルさがないから」とおっしゃった。それを聞いたときに、日本のサッカーにズルさがないのは、日本人だからではなくて、日本のサッカーが日本という国にまだ浸透してなかったからなのではないかと。

http://www.sponichi.co.jp/wsplus/column_k/01287.html

この場合の、ずるさ*1って何だろうなあ。

  • 強いが、ずるくない選手/チームというのはありうるのか。イエローカードやレッドカードを受けず、フェアプレー賞をもらう選手は、単に危険でないだけで、ずるくないわけでもないような。
  • 日本と比べても、サッカー中国代表のプレーは堅実だが全然ずるさがたりないと思うことがある。ここに来て随分改善されてきている感はあるが。べつに日本のサッカーが格別に不器用なわけではない。
  • 欧州リーグに行った日本人選手は、うまくなるかどうかはともかく、ずるくなっているような気はする。この間のワールドカップのときのオーストラリア代表は、大半がイングランドでプレーしていて、なんとなくずるかったような。

サッカーは、画面で見えるよりもずっと、押したり引いたり、引っ張ったり、蹴ったりといった接触技の応酬だというのは周知の事実。それは日本でもそうだし、大人だけでなく小学生でも事情は変わらない。その中で、ずるさとは何か。「うまい」「強い」とは別の軸、別の概念として、「ずるい」というのがあって、それを強化することが可能なのか。

サッカーに関して言えば(そして、おそらく他のどの分野でも)、ずるさが足りないから日本は弱いとか、ずるさを持てば日本が強くなるという主張には私は懐疑的である。ずるさのように見えるのは、強さそのものや、強い相手とやり合った経験なのであって、ずるさを云々しているとおかしな方向に行きがちだと思う。

ここで見られる「強くなる」vs.「ずるくなる」の対立は、「誠心誠意お客様と向き合う」vs.「営業テクニック」や、「まじめに勉強する」vs.「受験テクニック」とかとも共通しているかもしれない。いずれの場合でも、前者を進めていくのが本筋であって、その結果が他人からはあたかも後者(小手先テクニック)のように見えているケースが多いのである(たぶん)。

いや、もう少し複雑かも。サッカーはよくわからないので(笑)、たとえば数学のお勉強で考えると、

  • 強い=数学をよく理解していて計算力が高いから、問題がよく解ける
  • ずるい=たくさん場数を踏んでいるから、問題がよく解ける(ミスしないとか、受験のコツをつかんでいるとか)
  • いわゆる受験テクニック(よく出るパターンとか、「正解は2が多い」とか)

の3つを分けて考える必要があるかもしれない。とすると問題は、場数に伴う成果である「ずるい」を、あたかも一つのテクニックのように捉えて、それを場数以外の手段で鍛えようとすることなのかな。

いくらずるさを高めようとしても、絶対的な強さがなければ、ある程度以上までは届かない。逆に「強さがあってずるさが足りない」というのは局所的にはしばしば発生するが(サッカーの場合でも勉強の場合でも)、それは教育的指導や場数の経験によって比較的簡単に解決されることが多い。ずるい器用貧乏な若手よりも、一つの特長しかなくて穴だらけの若手のほうが、長期的には見込みがある場合が多い。

ええっと、何が言いたいかというと、ずるさが足りないという教育的指導は局所的には有効な場合もあるが、日本代表を強くするとか、日本サッカーの弱さの原因とか、そういう構造的・長期的な問題とはつながらないのではないか、ということ。

では、「ずるい」と対比させた「強い」とはどういうことか。サッカーで「強い」とは、単純に言えば以下の3つ。

  • プレー(判断の速さ、プレーのスピード、テクニック)
  • フィジカル・コンディション(身体能力、持久力、体調)
  • 戦術=まとまってチームとして機能すること(コレクティブ):どんなチームにも対応できる+自分たちのスタイルで仕掛けられる

これらがよければよいほど、そのチームは強くなる。言うは易し。
ちなみに、上記3項目はだいたい以下の本に書かれているままです(165)。

イビチャ・オシムの真実

イビチャ・オシムの真実

個人的には、去年までジェフにいたマリオ・ハースと、イビチャ・オシムがシュトルム・グラーツ時代からどれだけ長く一緒にやってきたのか実感できたのが興味深かった。

あと、それにしても、父オシムの戦略は見事だよなあ。

  1. 日本人は経済的に成功している(←オシム自身が繰り返し言っている)
  2. 日本人は経済的成功の背景に、勤勉さと頭の良さ(思考力)があると自認している
  3. 日本人は思考力がないと指摘されたら、もっと頑張ろうとする(体格がないと指摘されたら、あきらめる)
  4. だから、「考えるサッカー」をモットーにしよう

*1:サッカーでは、ポルトガル語から「マリーシア」とも呼ばれるらしい。

Googleはメディア+広告代理店

以前に書いたGoogleネタの補足。

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書 (501)

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書 (501)

この本の概要は、

  1. いまのGoogleAdwords(検索語によって広告を表示)、Adsense(ホームページの内容によって広告を表示)による広告収入で成り立っている、広告代理店である。
  2. そのビジネスモデルは、高度で便利な機能を無料で提供して多くの人を集め、利用者を広告へと誘導することで、広告主から収入を得る。テレビと基本的に同じ。
  3. 広告代理店としての特徴は、これまでの広告だと「オーバースペック」(目的と比べて対象が広すぎる)になって、広告が出しにくいニッチな広告を打ちやすいこと。メッキ工場とか、羽田空港の利用者用の駐車場とか。
  4. たしかにGoogleは当初、検索ロボット(PageRank)だけを持ったテクノロジーの会社だったが、今では広告代理店と同じビジネスモデル・利益構造であり、諸々の政治的圧力にも当然屈しやすい(無料サービスの利用価値を減らすようなことはしないだろうが)。

本書によると、広島の原爆ドームの解像度が低かったのと同様に(前回記事参照)、米軍基地やホワイトハウスについても精密な航空写真は見られないようになっていたらしい。他方で、他国政府から政府施設の航空写真を出されるのは困るという抗議を受けた際は、「この写真は誰でも利用可能なものを弊社が使っているに過ぎない」と言って取り合わなかったらしい(224-225)。
前回記事で書いたように、まあ政治的圧力に屈するのは必然だろうが、情報の公正さを保証する責任、あるいは説明責任を負わないまま、広告代理店とメディアそれ自体を兼ねていくのは、たしかに何か不健全な気がする。

もともとGoogleは反権威的(この場合の権威はYahoo!や既存大企業、行政機関)なインプリケーションを持ったところが、フリーソフトGNU GPLとかが大好きなネットユーザーの好みに合致して拡大してきた、という部分があったと思う。自分のことを考えても、何か誇らしい気持ちで、Yahoo!ではなくGoogleを使っていた時期があったような。

そのため、行政権力のネットへの過剰介入を嫌う動きの中で、Googleも守られてきたのではないか。

しかし、Googleはもはや技術だけの会社、アルゴリズムの結果を提供するだけの会社ではない。GNUmozillaなどのコミュニティに集う自主独立なフリー人間と、Googleは分けて考えないといけない(もちろん、人の面でも気質の面でも、共通する部分は相変わらず大きいだろうけど)。

総務省の権力がこれ以上増すのはよくないので、行政による規制というわけにはいかないが、物事を公平に処理しなければならない、公平に処理したことを証さないといけない、という(マスメディアなどが負わされている)積極的な倫理的義務を、Googleも負うべき時が来てるんじゃないのかな。

曲をいかに終わらせるか

オペラ座の怪人」を聴いて、もう一つ感心したのは、曲の終わらせ方である。オペラ的な壮大さを出そうとオーケストラ曲にすると、曲をどう終わらせるかが問題になりやすいが、この点の解決が実に見事なのである。

曲の終わらせ方は、音楽をどのような場で聴くかという場の問題に密接に関わる。

オーケストラ曲は、大勢の観客がハレの場としてやってくるコンサートで演奏されるための音楽だった。そのため、原則として、最後は盛大に盛り上がって終わるか(こちらが主流)、いったん劇的に盛り上げた後で、数分間に渡って少しずつ音を下げていって厳粛に終わらせるか(チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」)、どちらかだった。最後まで聞き終わった印象が大事であり、当然のことながら山場は最後に来る。

こうした終わり方は、現代人の目には、ほんとに馬鹿げたものに映る。最後の部分でオーケストラが全強奏で同じような和音を、「じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃーん」とやっているところなど、もはやメロディーでもないし、なんの美しさもないし、まったく理解不能である。ここに、われわれが本式のクラシック音楽にどうもなじめない一因がある。これを理解するには、最後に感動するのがお約束の、コンサート音楽の聴き方を修得する必要がある。

これに対し、ジャズの音楽は、一定のリズム・コードに乗りつつ自由に展開していくものなので、原理的には終わりがなくてもいいのだが、いつかは終わりが来て、終わらせ方というのがある(ドラムを叩いたり、サックスを吹いたり)。でも、フィナーレで一番盛り上がるわけでは必ずしもないし、むしろあっさり終わりがちである。

同じ器楽曲でも、ヒーリング・ミュージックにいたっては、そもそも山場がないし、終わりもない。盛り上がりも何もなく、ただやさしい音色が流れ続けて、なんとなく曲が終わる。そして、同じような曲がまた始まる*1

それでは、ポップスはどうかというと、山場が最後ではなくて、はやめに聴きどころ(サビ)が来るところという点はおおむね一貫しているが、曲の終わらせ方という点では1960年代に大きな変化が起きた。

  1. 以前:メロディーの後で終止音を「じゃん」と鳴らして、曲がおしまい(初期ビートルズのイメージ)
  2. 以降:フェードアウトという技法が出てきて、あいまいに曲を終わらせることが可能に

フェードアウトは生演奏では使えない(だんだん声を小さくしていく歌手を見て、観客は何を思えばいいのか)。録音された音楽が「コンサートの再現」から離陸し、独自の芸術領域を切り開く中で(ビートルズの『リボルバー』)、ミキシングの諸技法(多重録音など)とともに、フェードアウトも使われるようになったのである。

で、オペラ座の怪人

オペラ座の怪人」の音楽はクラシック的要素とロック・ポップス的要素を併せたところに魅力があるわけだが、曲の終わらせ方という点では両者は対極的である。

  • クラシック:末尾が重要。延々と続いて盛り上がっていく(音量暫増or暫減)
  • ロック・ポップス:末尾はどうでもいい。「じゃん」でおしまいか、あいまいにフェードアウト

オペラ座の怪人は、この矛盾をどう解決しているのか。

ロイド=ウェバーは、ロック・ポップスによるクラシックの上書きという形で処理している。クラシック的な音楽が流れていて、観客が満足するあたりになったら、延々と続くフィナーレに行くのではなく、突然ファントムのテーマ(ロックの象徴)が割り込んできて、曲が唐突に打ち切られるのである。

しかも、この音楽的な処理と、オペラの舞台がファントムによって操作され、破壊されるというストーリー展開とが重なり合っている。まあ、序曲などのストーリーがない部分でも、クラシックはフィナーレにさしかかるとロック・ポップスに唐突に上書きされ、そのまま終わるんだけど。

このへんのやり方は、ほんとに見事だなあ。

*1:作曲家の吉松隆は、ヒーリングCDのようなプログラムでコンサートをやったら、みんなうっとりぼんやりし続けて終演を迎えて、ぼやーっと帰ることになって、新興宗教みたいでヤバい、みたいなことを書いていた。

オペラ座の怪人

The Phantom of the Opera (Original 1986 London Cast)

The Phantom of the Opera (Original 1986 London Cast)

よい。非常によい*1

  • ロイド=ウェバーによる曲がどれもよい。壮大・優美なクラシック音楽(「オペラ座」だしね)と、刺激的なロック音楽(怪人のテーマ)のバランスが絶妙である。
  • ファントム役のマイケル・クロフォードがよい。天使⇔恋人⇔ピエロと声色が次々と変わって引き込まれる。特にピエロ声が◎。"A Disaster Beyond Your Imagination Will Occur!"というセリフが耳について離れません。
  • クリスティーヌ役のサラ・ブライトマンがよい。彼女は、クラシックな曲をちゃんと歌えて、しかもポップス音楽の了解可能性の範疇にとどまる(クラシック音楽独特の抑揚・高低がナンセンスに聞こえない)希有な人材だと思う。
  • というわけで、オリジナルキャスト版がオススメ。

ストーリーは、オペラ座に棲む歌のうまい謎の怪人(ファントム)と、ファントムの陰の働きによりコーラスガールから一躍脚光を浴びる歌姫(クリスティーヌ)、影が薄いけど最後はクリスティーヌとくっつく貴族(ラウル)、の三角関係とその帰結といった内容で、至極単純。

というか、大衆オペラやその末裔としてのミュージカル*2は、観客が台本を読んできてくれないし、セリフが歌なので難しいことを言っても伝わらない、という悲劇的運命を抱えているため、ストーリーは見ていれば分かるほど単純にせざるをえないのである*3

さて、オペラ座の怪人。これは1986年にロンドンで公開されて以来世界的大ヒットとなって、日本でも劇団四季がやって好評を博した。2004年には映画にもなったらしい。

これほどまでにヒットしたのは、なによりもロイド=ウェバーの曲がよかったからであるが(大半の曲がシングルカットされてイギリスでヒットした)、舞台設定も絶妙だと思う。

オペラ・ミュージカルは、歴史的背景や、舞台に観客の注目を引きつける必要などから、ストーリーが巨大化して荒唐無稽になりやすい。しかも、そのストーリーが、セリフがすべて歌でオーバーに演じられるわけである。その結果、なんでこんな「じゃじゃーん」って鳴って、「ア〜〜」とかって歌っているの?という疑問が避けられない。

オペラ座の怪人」は、オペラ座でのオペラの上演というのをストーリーの内部に取り込み、「なぜセリフが歌なのか」→「なぜなら、それはオペラだから」という形で自己言及的に観客に受け入れさせることで問題を解決している。オペラ座の怪人は、ラウルによるあまり歌的でない独白(レチタティーヴォと呼ぶのかな?)で始まり、ロック音楽風のテーマ曲のあと、オペラの練習のシーンになる。オペラの練習だから、歌をうたっていても当然だと思っているうちに、段々とすべてのセリフが歌になるオペラ・ミュージカルの世界に引き込まれていくのである。

あとは、ストーリーの大枠は単純だが、ファントムに勝ってクリスティーヌと一緒になったはずのラウルが、なぜかよぼよぼの爺さんになって、昔を懐かしみつつオークションに参加している冒頭シーンとかは、なんか意味ありげである。このあたりの思い入れ(ややフロイト的)は、林望さんの下記の本に詳しい*4

リンボウ先生 イギリスへ帰る (文春文庫)

リンボウ先生 イギリスへ帰る (文春文庫)

*1:オペラとかミュージカルの類は、小学校の音楽の時間に「ドレミの歌」「エーデルワイス」が出てくるミュージカル映画サウンド・オブ・ミュージック」を見て以来まったくダメだったのだが、これはよい。

*2:こっちは傍流で、本筋はハリウッド映画。ジョン・ウィリアムズの『スターウォーズ』とか。

*3:といっても、まだ観客が真剣に見てくれる点でましだとも言えて、その祖先である貴族用オペラは、祝典の余興やおしゃべりの背景画にすぎず、誰も真剣に見てくれていなかった。ストーリーも、完全に定型化されたものしか許されなかった。このへんは、下記の本が詳しくおもしろい(berutakiさんのご紹介)。

*4:林望さんのイギリス本はおもしろい。まじめだが、まじめなのをからかうのも好きなイギリス人(のイメージ)がお好きな方や、料理・食べ物(スコーンとクロテッド・クリームとか)の本がお好きな方はぜひ。『イギリスはおいしい』がイチオシです。

イギリスはおいしい (文春文庫)

イギリスはおいしい (文春文庫)

家電量販店の販売戦略 (2007.4.27 revised)

某先輩の記事に触発されて考えてみた。ちなみに先行文献とかは一切あたってません(某先輩のところの掲示板の議論はおおいに参考にしている)。何かあれば教えてください。

家電量販店の販売戦略にはいくつかの特徴がある。

  • ポイント制: 現金で値引きするだけでなく、次回購入時に使えるポイントを導入している(同じ店でも、ポイントをつけたり現金値引きしたり、使い分けられることが多い)
  • 値下げ確約コミットメント: 他店のチラシを持ってくれば、それと同じか、それ以下まで値下げすると宣言している

これらの戦略は何を意味するのか。少し考えてみよう。

家電量販店の顧客はおおまかに4つに分けられる。ラベルはてきとうです。

  忙しい(情報を得て店舗回りをすることに伴う機会費用が高い) ひま(機会費用が低い)
最新機種を買う セレブ(お金のある独身社会人、DINKS 家電マニア
値引き機種を買う 低関心者(子持ち家庭とか?) 合理的消費者

では、ポイント制や値下げコミットメントは、それぞれ何を目的にしているのか。

まず、ポイント制について。現金値引きに比べて、ポイント制には次の特徴がある。

  • ポイントを使って商品を買うとき、その分にはポイントがつかない。その結果、ポイントの比率が高まるほど、見かけの割引率と実際の割引率の差が大きくなる(http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/TH/TH513.html
  • 出したポイントのうち、実際に有効期限内に消費されるのは一部にとどまる(8割くらいかな?)
  • ポイントを消費するために、多少他店より高くても、その店舗を継続して利用する顧客が生じることが期待される
  • これらの結果、現金だけの場合よりも、多くの金額を割り引くことができる

どういった条件で何割増しのポイントをつけられるかは、ミクロ経済学でモデルを作れば計算できそうだが、ここでは大まかな傾向だけ見ておこう。

何割増しのポイントをつけられるかは、上の4つの顧客類型によって変わってくる。機会費用が低い(ひまな)家電マニアや合理的消費者の場合、ポイントをつけても合理的・有効に消費される(他店が安ければ、そっちで買う)ので、割り増しするわけにはいかない。これに対し、忙しい人の場合には、漠然と同じ店に戻ってくる可能性が高いので、ポイントを大幅に割り増しできる。

だから、忙しい人の顧客割合が高い店ほど、ポイント戦略を積極的に取ることができると考えられる。具体的には、うーん、都会のほうが忙しいからポイント戦略が効果的? このへんはデータがないと何とも言えないか。少なくとも、ヨドバシができる前の秋葉原のように、多くの店舗が並列的に存在している場合には、簡単に店舗間比較ができてしまうから(機会費用が低いから)、ポイント戦略をとる意義は低いと思われる。

で、関東の大手(というか自分がよく使うところ)についてポイント制を導入した年を調べてみたところ、以下のように「都心型店=ポイント制に向いている」仮説が支持されそうな気配ではある。都心型のチェーンは、郊外型よりも10年以上早くポイント制を導入している。宣伝戦略や実際の還元率で見ても、都心型チェーンのほうがポイント制を重視している(たぶん)。

【郊外型】

【都心型】

次に、値下げ確約コミットメントは何を意味するのか。まず、基本的に、このコミットメントは実は値下げ競争をストップさせる機能を果たしている。某先輩によると、

その種のチラシは「お前が値下げするならこちらはもっと値下げするぞ」という脅しのメッセージを競合店に伝える役割を果たします(つまりチラシの宛先は顧客ではなく実は競合店なのです)。すると競合店の方は値引きをしたとしても客をさらに集めることができないわけで値引きをするインセンティブを失います。かくして家電業界全体で見た場合に各商品の価格は一定に安定する、つまりこの戦略は価格カルテルと機能的に等価となっているのです。

下記のような、すてきなダイアローグもある(上記先輩とは別の人です)。ただ、正確には「他店と同じか、それよりも安く」だと思うので、こうはならないだろうけど。。。

http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070204/p2

ただ、このコミットメントが有効に機能するのは、新しい機種の場合に限られると思う。値下げ機種の場合、展示・保管スペースや在庫状況によって店舗ごとの差が大きいため、同じように値下げするのが合理的とは限らないからだ。各店舗は他店舗を気にせずに大胆に値下げするし、よそが下げたからといって、必ずしも追従するわけではない。そのために、多くの値下げ確約コミットメントには、「他店で〜点限りとして売られているものは除く」といった注釈が付いているのではないか*1

在庫品というのは、とにかく売れてほしいものである。家電製品の価格は時間が経つとどんどん下がる。仕入れ値はもう過去の話、埋没してしまった費用(sunk cost)なので、べつに原価割れとかは関係なく、安く売ってしまったほうがよい(もちろん、原価割れは過去の決断の失敗を意味するわけだが)。むしろ、需要のありかた、展示・倉庫スペース、新商品を入荷した場合の期待利益との関係で、価格が決まってくる*2

値下げコミットメントは、最新機種をほしがる人(セレブ、家電マニア)を引きつけるためのよい武器になる(古い商品は店による有無や、台数限定、展示処分品などの事情が大きいため、コミットメントは必ずしも機能しない)。

最新機種をほしがる人は、店にとっては一番いいお客さんなので、よそが始めたら、うちも始めるしかない。これをしない店は、競争相手のない田舎の店か、展示・接客なしで特に安くするビジネスモデル、あるいは/かつ、特定の利益の上がりそうな商品や古くなりつつある商品をずばっと値下げして客を集めるビジネスモデルなのだと思う。

最新機種を買う人は、セレブにせよマニアにせよ品揃えを重視すると思うので(セレブは時間がないし、マニアは比較できないと意味がない)、値下げコミットメントに加わる店は最新機種をずらりと揃えた大型店ばかりのはずだ(たぶん)。

そして、こうした店の中で、忙しい層(セレブ)のお客さんを特に増やしたい場合は広告を打つし、それよりも販売費用を抑制する(他の客層=家電マニアなどから利益を上げる)ことに重点を置く場合には広告を打たない、ということになるのだろう。原則として、よりブランドイメージの高い店はますます広告を打ち、低い店はあまり広告を打たない、という方向に向かいやすい気がする。テレビの広告や折り込みチラシは、基本的にセレブ向け、最新機種をあまり店巡りをせずに買いたい人向けのものなのである。

だいたいこんな感じで、客層ごとに分けた戦略だと理解すればいいのではないかな。

*1:といっても、実際には値下げ品はとっとと売れてほしいので、値下げする場合が多いだろうけど。

*2:これが経済学の理屈だが、実際には原価割れというのは大きな心理的障壁だろうなー。あとは、あんまり安売りするとイメージ上の不都合があるので、横流しするという選択肢もあるかもしれない。

パーソンズのマッカーシズム論と現代日本のナショナリズム

パーソンズ(Talcott Parsons),「アメリカにおける社会的緊張」とその「追記」
『政治と社会構造 上』1969=1973 新道正道監訳,誠信書房 所収

まず、マッカーシズムの定義をwikipediaから抜粋。

マッカーシズム(McCarthyism)とは、1950年2月にアメリカ合衆国上院で、ジョセフ・レイモンド・マッカーシー上院議員共和党)が「205人の共産主義者国務省職員として勤務している」と告発したことを契機に、ハリウッド映画界などをも巻き込んで大規模な「赤狩り」に発展した事件。後にはニューディーラーまで対象となった。
・・・マッカーシーはその告発対象をアメリカ陸軍やマスコミ関係者、映画関係者や学者にまで広げるなど、マッカーシズムは1950年代初頭のアメリカを恐怖に包み込んだが、マッカーシーやその右腕となった若手弁護士のロイ・コーンなどによる、偽の「共産主義者リスト」の提出に代表される様な様々な偽証や事実の歪曲、自白や協力者の告発、密告の強要までを取り入れた強引な手法が次第にマスコミや民主党から大きな反感を買うことになる。
・・・その後1954年3月9日には、ジャーナリストのエドワード・R・マローにより、マローがホストを勤めるドキュメンタリー番組「See it Now」の特別番組内でマッカーシー批判を行い多くの視聴者から支持を得たことを皮切りに、マスコミによるマッカーシーに対する批判が広がった。その後同年の12月2日に、上院は65対22でマッカーシーに対して「上院に不名誉と不評判をもたらすよう指揮した」として事実上の不信任を突きつけ、ここに「マッカーシズム=アメリカにおける赤狩り」は終焉を迎えることになる。

マッカーシズムの是非については、『諸君!』所収の中西輝政論文も含めて色々あるみたいだけど、そっちには触れません。

パーソンズの論文は1955年が初出なので、すでにマッカーシズム批判が盛り上がり、終焉を迎えつつある中で発表されたものということになる。

パーソンズマッカーシズム論は、大きく3つの段階に分けて整理できる。

  1. まず、社会変動に伴う持続的な社会的緊張によって、対立の構図が決まる: 政府の力を拡大しようとする「東部貴族・知識人」vs.個人主義・放任を求める産業界・西部
  2. 次に、外在的・偶然的な要因によって、争点が選び出される: 国際情勢+1.に由来する選択性 → 「世界共産主義」「容共主義
  3. さらに、ある種の社会的条件のもとで対立がバブル化する(信用のデフレーション: 西部の人たちのアンビバレント性(国家に忠誠を誓いたいが、個人主義も捨てがたい)や共産主義概念のアンビバレント性(たいていのリベラルな人は、共産主義者と疑えないこともない)に由来する

以下、詳細。

***

パーソンズによれば、マッカーシズムは単なる政治的反動やネオ・ファシズム、ネオ・ナショナリズムではない。むしろ、「アメリカ社会の状況と構造との主要な変化に伴う緊張の一つのかなり激しい兆候」だと考えるべき。突発的に一部の偏向した人たちが騒ぎ始めたのではなくて、その背景には、アメリカ社会が全体として抱えている問題・構造変動があるのだ、と主張する。

では、その構造変動とは何か。

従来アメリカでは産業界の実業家が社会一般(政治など)のリーダーになっていたが、ニューディール期ごろから、実業家とは別の勢力が進出してきた。東部都市出身の「ヨーロッパ的な貴族」(職業的政治家や有力弁護士、高級軍人など)たちと、いわゆる「知識人」たち。さらに、こうした「東部貴族や知識人」の高慢さに不満を持つ西部の農業経営者や新エリートもいた。マッカーシズムは、こうした「東部貴族や知識人」vs.その敵、という構図をとっていた。

また、従来のアメリカは個人主義・私益重視の「小さな政府」で済んでいたが、労働問題や国際情勢の変化などから、政府の力を増大させる社会的な必要が出てきて、ニューディール期ごろから政府の力が拡大していった。このことが、アメリカ社会に緊張を生んだ。緊張の焦点になったのは、政府の力が増してくると同時に、第二次大戦以来、国際情勢に対応するために国家的団結が求められる中で、国家への忠誠をどう考えるかという点である。

緊張下では、緊張・困難の源泉と考えられるもの(本当にそうである場合もあれば、間違っている場合もある)に対して、高度の不安と攻撃が集中してしまいがちである。一定の具体的かつ象徴的な発動者が、満足すべき状態を勝手にひっくり返したのであり、彼らさえ排除してしまえば、かつてのように「すべてがうまくいく」ようになる、という発想。これは過去を幻想的に美化して、そこに希望を見出す点で「退行的」とも言える。

特に緊張を強いられ、どっちつかずのアンビバレントな状況に追い込まれていたのは、中西部・西部の農業経営者・新エリートたちである。彼らは一方で社会の中心的課題に応えるべく、愛国的動機から国家に対して忠誠を誓いたいと願うが、それは彼らの職業形態や身に染みついた価値観(個人主義的伝統、フロンティア精神)と矛盾してしまう。

このような状況において、不快な義務、たとえば高い税金を払うことを忠実に受け入れることにとくに強い抵抗がある場合、とかく不忠誠な意図を他人におっかぶせることになりやすい。(252)

また、従来権力を握っていた産業界・実業家も、ある程度はこうしたアンビバレントな選択を抱えており、マッカーシズムに賛成しがちだった。

では、彼らはどのように敵をつくり、どのように批判をしたのか。マッカーシズムの場合、国家への貢献・忠誠が鍵になった。「(世界)共産主義」が敵になり、共産主義者は国家に対して100%の忠誠をしていないと批判された。

さらに、「共産主義」が漠然と持っている民主主義・人権といったリベラル思想(自由主義思想)との親和性を活用して、「容共主義」であるとしてリベラルな人が幅広くマッカーシズムの対象になった。もともとの社会的緊張は政府の力の拡大が引き起こしたものだから、政府の拡大を進めたニューディーラーら現実主義者も攻撃対象となった。当然の帰結として、「東部貴族」の象徴であるハーバード大学や行政機関は、容共主義の温床として激しく攻撃された。

ただ、リベラルなものが何でも批判されたわけではなく、かなりの選択性があったことも重要。制度的な部分では公教育での人種差別の撤廃や労働運動への譲歩などが同時に進められていた。これは、マッカーシズムの根元が政治の領域にあり、その攻撃対象があくまで政治的な部分に限られていた(経済・社会の領域にまで波及していない)ことを意味している。また、個々人が実際に負担をしないといけないような積極策までは論じられなかった。

私たちは、一方では面倒なことを避けたいと思う。しかし、他方、私たちは敵を確認して、それをただちに粉砕したいと思う。・・・この場合の[中国との関係についての]幻想は、思い切った行動をとれば、中国の状況をただちに「一蹴」することができ、私たちの心配の種はなくなるであろう、といったもののように思われる。(260-1)

パーソンズは、マッカーシズムは要するに社会的緊張に伴う国民的自信の喪失、信頼の危機であると総括している。

で、彼は処方箋として、国民が社会的緊張に伴う不安を克服し、自信を取り戻した上で、政治勢力に経済界と政治エリートの二つがあることを認め、それらのバランスをとっていくこと、現在の規範的秩序・集合的組織の枠内での「制度化された個人主義」が重要だと述べる。

「追記」では、アンビバレントな状況がマッカーシズムに至る過程について、もう少し説明を加えている。パーソンズによれば、それは「信用のデフレーション取り付け騒ぎ」だった。平均的市民が国家に対して一定の忠誠を持っているという信用にいったん疑問が生じると、疑問が疑問を生んで信用がどんどん失われていき、絶対的な国家的忠誠しか信用できない状態に至る。当時のアメリカで起きたのは、こうした信用のデフレ現象だったのである。

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パーソンズマッカーシズム論は、昨今の社会情勢(日本のナショナリズム、米国の対テロ戦争など)にどう適用できるか、あるいは適用できないか。

パーソンズの議論は、表面的にはイデオロギーの噴出にしか見えない現象の背景に、社会構造の変化と、それに伴う社会的緊張があるという論じ方である。

たしか高原さんの議論は同型のもので、現在のナショナリズムの光炎の背景には、若者の雇用の流動化と、それに伴う親世代(生活保守主義)への不満・将来への不安といった社会的緊張がある、と述べていた(ような気がする)。

マッカーシズムの場合は国家の拡大が危機を引き起こしているわけだが、現代日本の場合はむしろ国家の縮小によって引き起こされた緊張なのかな。