ウェーバーと「事実をして語らしめる」

前にGoogleの政治性について書いたときに、マックス・ヴェーバーの「事実をして語らしめる」を引いて書いたら*1、それ以来、検索で来る方がたくさんいらっしゃいます。

で、さっそくGoogleで検索してみたら、たしかにネット上じゃあまり見つからない。というわけで、専門家ではないけれど、ちょこっとだけご案内。

「事実をして語らしめる」というと、事実を事実として伝える、事実の裏付けをもって語る、という感じで、よいこととして理解されがちである。たしかにこれらは、普通に考えると悪いことではないし、多くの場合望ましいだろう。

しかし、ヴェーバーやその流れにある社会科学基礎論の文脈では、そのへんをもう少し突き詰めて考える必要がある。
ここで問題になるのは、教師が教壇から語る場合に、「事実をして語らしめる」のが正当かどうか、という点。議会演説など、他の場面での振る舞いはとりあえず論点になっていない点に注意が必要。大学教師は教壇においてどのように振る舞うべきか。どうするのが学問的な態度と言えるのか。

この問いを取り上げたのがウェーバーの『職業としての学問』である。もともと1919年1月にミュンヘンで行った講演を起こしたもの。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

教室では、たとえば「民主主義」について語るばあい、まずその種々の形態をあげ、そのおのおのがそのはたらきにおいてどう違うかを分析し、また社会生活にとってそのおのおのがどのような影響を及ぼすかを確定し、ついで他の民主主義をとらない政治的秩序をこれらと比較し、このようにして聴講者たちが、民主主義について、各自その究極の理想とするところから自分の立場をきめるうえの拠りどころを発見しうるようにするのである(48-9)。

このあと、以下のように続く。

このばあい、まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を――あからさまにしろ暗示的にしろ――強いるようなことのないように用心するであろう。なぜなら、「事実をして語らしめる」というたてまえにとって、このような態度はもとよりもっとも不誠実なものだからである(49)。

ここが「事実をして語らしめる」の部分。尾高訳では、学問のたてまえとして、「事実をして語らしめる」ことに対して肯定的な評価が与えられ、それに反する態度こそが不誠実だとされている。

これに対し、折原浩氏は下記の本の解説(ヴェーバー理論の詳しい解説になっている)で、次のように訳すべきだと述べている(320-1)。

まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を――あからさまにしろ暗示的にしろ――強いるようなことのないように用心するであろう。・・・「事実をして語らしめる」[すなわち、価値判断を価値判断としてフェアに明示するのでなく、抗いがたい既成事実に見せかけ、価値判断と事実判断との混同に誘い、既成事実への屈服を強いる]とすれば、それはもとより、もっとも不誠実なやり方である。

ここでは、「事実をして語らしめる」ことが、事実を事実として語るという意味ではなく、事実判断と価値判断を混ぜて語ることとして捉えられ、ヴェーバーはそれを不誠実だと批判しているという形で訳されている。

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

これに対する再批判というのもあるかもしれないけれど、私は今のところ把握していないです。

「事実をして語らしめる」あたりのことはなかなか複雑な問題もあるけれど(科学認識論としても、教育論としても、社会科学論としても)、それはまた別の機会に考えることにして、今日は情報提供だけで。

***コメントのほうもぜひご覧ください***

*1:アルゴリズムをして語らしめるGoogle」みたいに書いたような気がするのだが、あんまり文脈に合ってなかったので、すぐに削除した。