アマチュアからはアマチュアしか育たない

中村氏は有名なピアニスト。この本は、彼女がクラシック・ピアノ界で最高ランクのコンクールである(他にショパンとエリザベトが同列らしい)チャイコフスキー・コンクールに審査員として参加したときのことを書いたノンフィクションです。

チャイコフスキー・コンクールはモスクワで開催されるんだけど、この頃はまだソ連だった時代。その内輪からの報告という面と、それまで日本では神聖視されていたクラシック音楽界の内輪を暴露したという面から、なかなか大きな反響を呼んだみたいです。

まず、クラシック音楽におけるコンクールの意味を説明しておくか。

クラシックのプロの世界というのは結構変な世界らしく、順当に競争に勝っていけばプロになれるというものではない。

もちろん、有名な音楽学校に行って、有名な音楽家に師事しなければ、プロになれる道理はない(技術的にもコネ的にも)。でも、そういうエリート・コースに乗ったからといって、それだけでプロになれるわけじゃない。

プロの演奏家になるためのルートは3つ。

  1. 幸運な代役
  2. コンクールで優勝
  3. 神童になる

幸運な代役というのは、もともと指揮することになっていたプロの演奏家が病気などを理由にドタキャンしたときに、代役として演奏を行ない、それがブラボーで終わってそのままプロになるというパターン。

バーンスタインというアメリカの大指揮者(1918-1990)が、ワルター(1876-1962)という昔の大指揮者の代役としてデビューし、そこからスターへの道を歩んでいったのは(この筋では)有名です。

3番目の「神童になる」っていうのは、べつに本人がなろうと思ってなれるものでも、ウデが良ければなれるものでもない。幼いうちにちょっと活躍して、それがマスコミで「神童あらわる!!」と取り上げられて、そのままプロになるというパターン。

ただし、この場合にはせっかくプロになれても、大人になる段階でもう一度厳しい目に遭わなくちゃいけなくて、そこでつぶれてしまう人が多いらしい。かわいそうに。

でも、幸運な代役も神童もあまりにも偶然が左右しすぎる。その一方で、第二次大戦後には世界各地で音楽教育の仕組みが整備され、優秀な音楽家がシステマチックに生み出されるようになった。

このままでは、きわめて優秀であるにもかかわらず、世に出られない音楽家がたくさん出てしまう。

そこで、優秀な音楽家がきちんと世に出られるように成立したのが、コンクールという仕組みだったのです。

で、そのコンクールの審査員になって、審査の裏側を描いたのが中村さんの本でした。いやー、こんなこと書いていいのか、ってことを結構書いてます。

審査員がコンクール参加者の風貌をネタにして雑談したり、明らかに女性差別的な言動をとったり、それぞれ自分の教え子がコンクールに出てるので、えこひいきをしたり。

でも、この本がすごいのは、そうやってクラシック音楽界の権威を崩すだけじゃなくて、崩すのと同じくらい、コンクールでの審査基準が確固たるものであることを読者に示している点。

中村氏が言うには、コンクールで上位に食い込むためには、なによりもピアノを楽譜通りに弾けることが重要なわけだが(音程・テンポだけじゃなく、一音ごとに強弱・長さが合ってることとか)、それだけでなく「音楽的」でなければならないらしい。

音楽的とは何か。ここで「音楽的」というのは、プロだと誰もが当然持っている資質。心技ともに高い水準にあり、独自の表現語法を確立している演奏家のことは、あえて音楽的とはいわない。一級の音楽家にとって、音楽的であることは前提である。

中村氏は、「音楽的」を「出鱈目」と対比させています。

出鱈目というのは、例えば、ベートーヴェンの初期ソナタで、提示部と再現部を全然違うテンポで弾くとか、モーツァルトショパンと同じようにうたって弾くとか、ベートーヴェンをすごいテンポ・ルバートで弾くとか、そういうことらしい。

あんまりピンとこないかもしれないけど、要するにたぶん、まだロマンチックに弾くことがなかった時代の曲を、ロマンチックに弾いてしまうことを意味しています。

ひるがえって音楽的とは何か。それは、それぞれの曲が作られた時代背景や曲の構造などを理解し、それに即した演奏ができること。同じ付点リズムでもバッハ、ベートーヴェンショパンでは意味合いが違う。こうした違いに合わせた奏法のディテールこそが「音楽的」の内容なのです。

だから、バッハとショパンの違いを教えられない先生に習ったら、音楽的にはなりようがない。アマチュアからはアマチュアしか育たない。「第一級の演奏家になるためには、第一級の演奏家からその実戦体験をふまえた「企業秘密」の極意を学ぶ必要がある」(285)と中村氏は述べております。

マチュアからはアマチュアしか育たない、という表現で中村氏がやんわり批判しているのは、音楽学校が乱立した戦後日本の状況です。

そうした学校で、「音楽的」になるには至らなかったアマチュア演奏家が大量に生み出され(この段階では生徒側の才能の問題)、その人たちが先生になって教える結果、アマチュアがさらに大量生産される(ここでは教師側の問題になっている)という循環構造。

あ、でも、中村氏もこういう構造を全面的に否定しているんじゃなくて、そこに可能性を見出してそうな表現もちらほらしてます。ただ、基本トーンは「アマチュアからはアマチュアしか育たない」で一貫している。