アマチュアからはアマチュアしか育たない(2):社会学的考察

それにしても、このモデルはなかなか社会学的に興味深い。話は音楽から離れるのだが、「アマチュアからはアマチュアしか育たない」と言えるのは、どういう性質を持った分野なんだろうね。

たとえば野球とかは、優秀な指導者が優秀な選手を生むという面もあるけど、そこまで決定的でもなさそう。中学までは結構いろんな所出身だし、高校野球でも、(全国的には)無名な学校に優秀なピッチャーが入った結果、学校は甲子園に出場し、本人はプロ入りした、みたいな話は結構ある。

小説家とか漫画家とかは、偉い先生に師事してデビューする人もいるけど、独力でコンクールに入選してデビューする人も多いから、あまり「アマチュアからはアマチュアしか育たない」という要素はない。

学者は結構ビミョウだね。優秀な学者の教え子が優秀とは限らないし、師匠の偉さと教え子の偉さの相関はそこまで高くはなさそうだけど、あまりにもひどい学者の教え子が偉くなることもない気がする。というか、学者に関しては「学校の違い」という要素の方が大きすぎるから、あんまり適例ではないか。

日本の伝統芸能は、基本的に「アマチュアからはアマチュアしか育たない」という発想でやってるんだろう。だから、親から子に演技の秘密を伝える世襲制になっている。

ポップスやロックは全く「アマチュアからはアマチュアしか育たない」的ではないね。

産業の面では、精密加工の技術とかは「アマチュアからはアマチュアしか育たない」と言えそう。学校の先生から習ったことだけをもとに、プロと同じレベルの加工技術にたどり着ける見込みはほとんどない。

他方、仕事の中でもパソコンのプログラミングとか、営業とか、そういったものは独力で高いレベルまで行ける気配。フリーソフトとメーカー製のソフトで差がなかったりするのは、そういう事情だからでしょう。

ここまで挙げたのをまとめると、

  • 「アマ→アマ」的:クラシック、伝統芸能、精密加工
  • どちらとも言えない:野球、学者
  • 「アマ→アマ」的でない:小説家/漫画家、ポップス/ロック、営業、プログラミング

つらつら書いてるだけで分析してはいないのだが、たぶん次の2つが重要そうな気がする。

  1. 評価基準が再帰的である(=評価基準は突きつめればプロ集団の自己評価)
  2. 技能の内容が身体的である(=コミュニケーション的でない)

クラシックも伝統芸能も評価基準が再帰的だから、「アマ→アマ」的なのだが、同じ芸術系でもポップスは評価基準が外部(一般世論)にあるから、「アマ→アマ」的ではない。

野球や精密加工は評価基準の再帰性はないけれど、技能の内容が身体的だから、それなりに「アマ→アマ」的。クラシック・伝統芸能は身体技能という面も兼ね備えているから、「アマ→アマ」性がきわめて強い。

学者は、評価基準は再帰的だけど(学術雑誌の査読制はまさにこれ)、技能の内容がまったく身体的でなく、コミュニケーション的だから、それほど「アマ→アマ」的な面は強くない。

ああ、ここで「コミュニケーション的」と言ってるのは、技能の内容が「コトバがらみ」のものであるということです。それ以上の含意はなし。

営業やプログラミングの仕事の評価基準は外部にあるし、仕事内容も身体的でなくコミュニケーション的だから、「アマ→アマ」的な面はきわめて少なくなる。

と、以上のような感じで「アマ→アマ」問題を理解することができるのではないか。

***

おまけ情報。

チャイコフスキー・コンクールでの「○位」というのは、普通の意味での順番ではなく、ランクの高さのようなものらしいね。

いい人がいないときは「1位なし」で2位からになるし、最終選考まで残った人にはできるだけ全員いい順位がつくよう、4位から6位まで各2人ずつにしたりしている。

これまで「1に○○、2に○○、3、4がなくて、5に○○」みたいな表現は、序数を扱っているのに変だなあ(序数は中抜けしないだろ)、と思ってたけど、これは音楽コンクールと同じ系統の表現なんだね、きっと。

それと、ホロヴィッツというアメリカで活躍した大ピアニストがいて、この人はどんな曲でも自分好み(ロマン的かつ技巧的に難しく)に弾くのだが、この人について次のように書いてあるのがおもしろかった。

ホロヴィッツの演奏は、すべてのピアニストから憧れられるが、実際に勉強の手本にしたら一巻の終りだと広く信じられている。」

これはなんかわかる気がする。偉大で、みんなあこがれるけど、マネをしたらやばいだろ、という人は色んな分野にいるよね。野球だとイチローとか。哲学だとヴィトゲンシュタインとか。