曲をいかに終わらせるか

オペラ座の怪人」を聴いて、もう一つ感心したのは、曲の終わらせ方である。オペラ的な壮大さを出そうとオーケストラ曲にすると、曲をどう終わらせるかが問題になりやすいが、この点の解決が実に見事なのである。

曲の終わらせ方は、音楽をどのような場で聴くかという場の問題に密接に関わる。

オーケストラ曲は、大勢の観客がハレの場としてやってくるコンサートで演奏されるための音楽だった。そのため、原則として、最後は盛大に盛り上がって終わるか(こちらが主流)、いったん劇的に盛り上げた後で、数分間に渡って少しずつ音を下げていって厳粛に終わらせるか(チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」)、どちらかだった。最後まで聞き終わった印象が大事であり、当然のことながら山場は最後に来る。

こうした終わり方は、現代人の目には、ほんとに馬鹿げたものに映る。最後の部分でオーケストラが全強奏で同じような和音を、「じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃん、じゃーん」とやっているところなど、もはやメロディーでもないし、なんの美しさもないし、まったく理解不能である。ここに、われわれが本式のクラシック音楽にどうもなじめない一因がある。これを理解するには、最後に感動するのがお約束の、コンサート音楽の聴き方を修得する必要がある。

これに対し、ジャズの音楽は、一定のリズム・コードに乗りつつ自由に展開していくものなので、原理的には終わりがなくてもいいのだが、いつかは終わりが来て、終わらせ方というのがある(ドラムを叩いたり、サックスを吹いたり)。でも、フィナーレで一番盛り上がるわけでは必ずしもないし、むしろあっさり終わりがちである。

同じ器楽曲でも、ヒーリング・ミュージックにいたっては、そもそも山場がないし、終わりもない。盛り上がりも何もなく、ただやさしい音色が流れ続けて、なんとなく曲が終わる。そして、同じような曲がまた始まる*1

それでは、ポップスはどうかというと、山場が最後ではなくて、はやめに聴きどころ(サビ)が来るところという点はおおむね一貫しているが、曲の終わらせ方という点では1960年代に大きな変化が起きた。

  1. 以前:メロディーの後で終止音を「じゃん」と鳴らして、曲がおしまい(初期ビートルズのイメージ)
  2. 以降:フェードアウトという技法が出てきて、あいまいに曲を終わらせることが可能に

フェードアウトは生演奏では使えない(だんだん声を小さくしていく歌手を見て、観客は何を思えばいいのか)。録音された音楽が「コンサートの再現」から離陸し、独自の芸術領域を切り開く中で(ビートルズの『リボルバー』)、ミキシングの諸技法(多重録音など)とともに、フェードアウトも使われるようになったのである。

で、オペラ座の怪人

オペラ座の怪人」の音楽はクラシック的要素とロック・ポップス的要素を併せたところに魅力があるわけだが、曲の終わらせ方という点では両者は対極的である。

  • クラシック:末尾が重要。延々と続いて盛り上がっていく(音量暫増or暫減)
  • ロック・ポップス:末尾はどうでもいい。「じゃん」でおしまいか、あいまいにフェードアウト

オペラ座の怪人は、この矛盾をどう解決しているのか。

ロイド=ウェバーは、ロック・ポップスによるクラシックの上書きという形で処理している。クラシック的な音楽が流れていて、観客が満足するあたりになったら、延々と続くフィナーレに行くのではなく、突然ファントムのテーマ(ロックの象徴)が割り込んできて、曲が唐突に打ち切られるのである。

しかも、この音楽的な処理と、オペラの舞台がファントムによって操作され、破壊されるというストーリー展開とが重なり合っている。まあ、序曲などのストーリーがない部分でも、クラシックはフィナーレにさしかかるとロック・ポップスに唐突に上書きされ、そのまま終わるんだけど。

このへんのやり方は、ほんとに見事だなあ。

*1:作曲家の吉松隆は、ヒーリングCDのようなプログラムでコンサートをやったら、みんなうっとりぼんやりし続けて終演を迎えて、ぼやーっと帰ることになって、新興宗教みたいでヤバい、みたいなことを書いていた。