クラシックとモダン・ジャズ

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

たしかに非常に面白い。西洋クラシック音楽の歴史を、一貫したリアリティーのあるストーリーとして描くことに成功していると思う。

本書を通して私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである。「クラシック音楽」の世界とは、「自分が好きな曲」・・・「あまり興味のない曲」などが、単にヴァイキング形式のレストランよろしくずらりと並べられている非歴史的な空間などではない。「このような音楽はどこから生まれてきたのか」、「それはいったいどんな問題を提起していたのか」・・・。こういうことを考えることで、音楽を聴く歓びのまったく新しい次元が生まれてくる(vii)

以下、自分なりのまとめ。

クラシック音楽の基礎

  • 楽譜として書かれ、設計された音楽である
  • 音楽がそれ自体のために作曲・演奏される(宗教行事とか祝典のBGMとかではなく)

これらを基礎として、ウィーン古典派(ハイドンモーツァルト)あたりから20世紀初頭(マーラードビュッシー)までのクラシック音楽は3つの側面を併せ持っていた。

(1)作曲上のさまざまな実験を試みる=作曲家・作品の歴史的前進

  • 作品が将来に渡って繰り返し演奏される(そういう作品こそがいい作品とされる)
  • 先人たちの達しえなかった新しい表現を見つける
  • あくなき新テクノロジー・超絶技巧の追求

(2)過去の名作を立派に演奏する=公式文化・伝統の継承

  • 「公的な晴れがましさ」(112)
  • 宗教や哲学に比肩しうるような「深さ」や「内面性」
  • 正統文化の継承者としての「巨匠」、誰もが認める「名演」
  • 音楽批評による名作の発見、音楽学校による名作の保存

(3)市民に夢と感動を与える音楽

  • パトロン・作曲家集団だけでなく広く公衆にアピールする(演奏会の成立、楽譜の出版、「第九」
  • 音楽によってさまざまな具体的・個人的な感情を鮮やかに表現する(バロック=類型的感情 → 古典派=貴族的な感情 → ロマン派=大衆を感動させる音楽)〜「胸の奥から絞り出す吐息」(170)

20世紀後半に入り、これら3つの流れが完全に分裂した。
(1)→前衛音楽
(2)→巨匠の名演
(3)→ポピュラー音楽

今日の音楽的状況を語る上では、これら3つの流れが併走していることを踏まえる必要がある。それを踏まえないから、相互にステレオタイプな批判を浴びせることになる(227)。

  1. 前衛音楽 ← 「公衆を置き去りにした独りよがり」
  2. 巨匠の名演 ← 「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」
  3. ポピュラー音楽 ← 「公衆との妥協/商品としての音楽」

著者が面白いのは、20世紀後半に入ってこれら3つが一時的に一致したジャンルとして、マイルス・デイヴィス時代のモダン・ジャズを挙げていること。結局、クラシック音楽と同様に(しかしはるかに急速に)、大衆路線と芸術路線(とブルーノート名盤至上主義)に分裂してしまったが。

クラシックとモダンジャズをこのように位置づける視点は、少なくとも私にはとても斬新だった。

***追記***

下記CDのライナー・ノーツで、熊谷美広さんが次のように書いていた。

まさにパーフェクトなこの7曲を残し、WR[ウェザー・リポート]はこの鉄壁のフォーマットを解体し、新しい旅立ちに出る。そしてそれと時を同じくしてジャズ・シーンにはウィントン・マルサリス新伝承派と呼ばれているようだ]が登場し、ジャズは一気に“過去”へと向かっていく。“常に前進すること”と“過去の遺産を大切にする”ということは、このWRのアルバムのように両立が可能だったにもかかわらず、ぼくたちはそれに気付かず、ウィントンを“ジャズの救世主”にまつり上げてしまった。本当はWRこそがジャズの救世主だったのに……。

1970年代以降のジャズでは、「前進」と「過去」の矛盾というのは結構共有されていた問題認識のようだ。ハービー・ハンコックチック・コリアをはじめとして、ジャズとそれ以外の音楽との融和を目指した結果、「軟化」したと批判されたジャズ演奏家は数知れない。

’81

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