Hannigan: Environmental Sociology関連部分の要約

Environmental Sociology, Second Edition (Environment And Society)

Environmental Sociology, Second Edition (Environment And Society)

John Hannigan: Environmental Sociology (Second Edition), 2006 Routledge.

第1版は「A Social Constructionist Perspective=社会構築主義の立場から」という副題が付いていた。

構築主義の視点・枠組をベースにしながら、環境社会学のこれまでの研究成果をうまく整理している(まだ二つの章しか読んでいないけど)。ここでは、構築主義と言っても方法論的な制約とかはあまりなくて、

  1. 環境問題が提起される(構築される)社会的プロセスを分析対象とする(問題であることを自明視したり、安易に「客観的被害の帰結」としたりしない)
  2. そのプロセスで作用するメカニズムを社会構造・経済的利害の面だけでなく、クレイム・レトリック・アリーナ(議論が行われる場)・言説の面からも分析する

といった程度の意味だと思う。


第7章 科学・科学者・環境問題

クレイム申し立て活動としての科学

Aronson(1984)は科学者による知識クレイムを以下のように分類している。

  1. 認知クレイム:科学が明らかにした事実を述べる(レトリックを使って、発見を強調したりもする(Blakeslee(1994)のPhysical Review Letters誌の分析))
  2. 解釈クレイム:科学が明らかにした事実が社会的にどのような意味を持つか、なぜ社会的に重要かを述べる
    1. 技術型の解釈クレイム:研究者が行政や企業のアドバイザーになり、リスクの社会的影響を評価する。Salter(1988)の「委託された科学(mandated science)」の議論。
    2. 文化型の解釈クレイム:研究推進や科学の自律性が社会にとっていかに重要かを説く。
    3. 社会問題型の解釈クレイム:社会問題が存在しており、それを自分たちの研究が解決できるのだ、と説く。
  3. 研究の欠如ignoranceクレイム:「こんなに大事なのに研究されていない」と主張する

社会問題型の解釈クレイムがでてきやすい社会状況は・・・

  • 新しい専門分野ができつつあるとき、科学の内部でのサポートはまだ得られないため、社会の側に訴えることで研究資源を得ようとする。こうした動きは当然のことながら主流派の科学者から批判される(Rycroft 1991)。
  • 野心的な研究者は、自らの研究成果によって社会的注目を集めている問題が解決できることをアピールして、研究費を得ようとする。1970年代のガン研究、1980年代のAIDS研究。
  • 社会運動によって研究が拘束されようとしているとき、科学者はなぜ研究が必要なのかを訴える。遺伝子工学

科学的不確実性と環境問題の構築

WynneとMayer(1993)は、環境が危機にあるとき、科学と政治の間に明確な境界はないとして、予防原則の重要性を訴えている。予防原則には批判もあるが、いずれにせよ大きな社会的潮流として、重要になりつつあるのは確か。

鍵になるジレンマは、環境問題に関するクレイム申し立ては科学に裏付けられているほうが強固であるが、そもそも何が科学なのかについて合意がない、ということ。

環境問題が科学的問題となる過程

環境問題が浮上するとき、大体の場合はその背後に長い科学的探究の歴史がある。地球温暖化酸性雨など。では、なぜあるとき急に社会問題化するのか。

  1. 実際の/認識された状況が急速に悪化した場合。生態系の問題など。
  2. 新しくデータが集められるようになって、問題の深刻さが見えてきた場合。酸性雨の問題など。
  3. 環境問題への関心がある問題から別の問題へと連鎖して広がっていく(例、熱帯雨林の問題が先進国で問題になる)。
  4. ある地域的な問題のために作られた組織が、今度は新しい問題が構築される過程で中心的な役割を果たす(例、1976年の大干ばつ→気候研究のプロジェクト→地球温暖化問題(Liberatore 1994))。

カミング・アウト:新しい環境問題を世界に訴える

科学者はどうやって問題を世間に訴えるか。無難な方法は、科学者・企業人・行政官などが参加するフォーラムの場で発表すること。しかし、いきなりマスメディアに発表して、その後にようやく学術論文が出たケースもある(酸性雨の問題)。

科学と環境政策

国境を超えた科学者たちの認識共同体 epistemic communities(Haas)。この認識共同体が、オゾン層の問題や地球温暖化問題で大きな役割を果たした。今日ではFriends of the Earthやグリーンピースなどの環境団体もPhDを取得したばかりの研究者たちを雇い入れるようになり、こうした団体と行政の政策決定者の間でも、部分的にだが認識共同体が成立している。

政策の窓policy windowsの議論(Marchらのゴミ箱モデル→Kingdonが発展させた)。普段は(1)問題の認識、(2)政策の形成・修正、(3)政治、がそれぞれ別個に動いているが、特別な機会(政治の窓が開くとき)にそれらが結びつく。HartとVictor(1993)はこのモデルを地球温暖化問題に適用し、1970年代前半に環境運動が盛り上がったときに窓が開いたと論じている。

環境問題の解決過程における科学の役割

Susskind(1994)は環境政策の決定過程における科学者の役割を5つに分類している。

  • 新トレンドを発見する人
  • 理論を構築する人
  • 理論を検証する人
  • 科学コミュニケーター
  • こうした一連の過程を分析する人(応用政策分析)

規制科学と環境

Jasanoff(1990)は、環境問題の規制の文脈で、従来の伝統的な科学とは幾つかの点で異なる性質を持つ「規制科学regulatory science」が成立していると論じている。科学知識をめぐる交渉・構築過程を分析している。


第8章 リスク

サーモンをめぐる二転三転:養殖サーモンにたっぷり含まれる脂肪が心臓病のリスクを減らすと言われて、喜んで食べていたのに、養殖物には天然物の10倍の発ガン性物質が含まれることが明らかになった。リスク分析すると、発ガン性物質のリスクのほうが大きい、という主張が出てきたのである。これに対して、米国FDAは養殖サーモンの汚染は大したことないとリスク分析に基づいて主張した。それにもかかわらず、米国でのサーモンの人気は低下した(2004年頃)。

今日の社会では、リスクの認知・評価が個々人の行動に大きな影響を与えている。リスク分析を生業にする人たち(Risk professionals)の成立(Dietz & Rycroft 1987)。

リスクと文化

DouglasとWildavsky(1982)のリスクの文化的理論:今日の社会でのリスク認知(どのリスクを重視し、どのリスクを軽視するか)は、個人主義(individualist=市場に任せておけ)、上意下達主義(hierarchical=政府が管理する)、平等主義(egalitarian≒New Ecological Paradigmへの価値コミットメント)の3つの考え方の組み合わせから成立していると捉えた。

DouglasとWildavskyがリスクに対してとった相対主義の立場は批判もされてきた。Wilkinson(2001)はDouglasのリスク理論とBeckのリスク理論を比較して、両者ともリスクをあくまで社会の観点から分析する点で共通しているが、Beck現代社会のリスクが実際に大変なことをもたらしうると考えているのに対し、Douglasはそうした預言者的な見方に懐疑的な点で異なる、と指摘している。

リスクを社会学的に見ると・・・

多くの社会学者はDouglasほど徹底した相対主義ではなく、自然科学的なリスク分析が、リスクをめぐる社会的メカニズムの中で枢要な位置にあることを認めている(例、Renn 1992)。

Dietz et al.はリスクの社会学における現在の潮流を3つに整理している。

  1. リスク認知はアクターの社会的属性や問題の社会的文脈に応じてどのように変わるか。
  2. リスク認知が対人関係やマスメディアを通じてどのように流れていくか。
  3. 複雑な技術システムにおけるリスクの組織社会学的研究(Perrow 1984)。

リスクが社会的に定義される過程

Hilgartner(1992)はリスクの社会的定義に注目する必要があると論じている。あらかじめ対象が明確に決まっていて、それのリスクが論じられるのではない。リスクが論じられる過程で対象が分離され、リスクの源として措定されるのである。

リスクが構築される場(アリーナ)

こうしたリスク問題をめぐる論争は、複数の社会的アリーナの中で扱われる(Hilgartner & Bosk 1988; Renn 1992)。アリーナ論は、ゴフマンのドラマトゥルギー・モデルによる社会関係の分析、エーデルマンの象徴モデルによる政治の分析、マッカーシー&ザルド一派の資源動員モデルによる社会運動の分析などを下敷きにしている。

リスク構築の過程で最も重要なのは、専門家たち(科学者、技術者、法曹、医師・・・)が中心になるアリーナである(Hilgartner 1992: 52)。これらの専門家たち・実務家たちはリスク構築で中心的な役割を果たし、お互いがお互いの活動を象徴として利用しあい、全体として環境問題の社会問題の中での位置づけを高めている。

DietzとRycroft(1987)はワシントンに拠点を置く228人のリスク専門家・実務家たち(risk professionals)を分析し、彼らが環境運動・シンクタンク・大学・法曹・企業・EPA・その他行政など、多様なところに所属しつつも、相互に密接なコミュニケーション・ネットワークを形成していることを明らかにしている。

権力、環境リスクの社会的構築

リスクが構築される過程での権力powerの働きについて。

リスク専門家・実務家たちは正しく、それに反対する一般市民は間違っている、となりがちなのはなぜか。構築主義の見方を取れば、専門家たちのフレーミングと一般市民のフレーミングという異なる二つのフレーミングがあり、専門家たちのフレーミングのほうが権力が大きいため、そちらが「合理的」「正しい」とされがちなのだと見ることができる(Wynne 1992)。

この権力関係は、リスク問題に関するヒアリング・ミーティングの場で最も鮮明に表れる。専門家たちは次々と資料を出して説明をするのに対し、一般市民は単発の質問を繰り返すことしかできない。部屋の中での専門家と市民の配置も権力関係を反映したものになりがちである。

リスクの問題での権力関係はしばしば性別やマイノリティなどの権力関係に沿った形で表れる。

リスク構築のされ方について国際比較する

Jasanoff(1986)は、国によって文化が異なり、それに応じてリスク構築のされ方も異なると論じている。

  • ドイツ:リスクの問題はもっぱら専門家の判断に委ねられる。世論が沸騰した場合でも、市民を含めて「テクノロジー・アセスメント」を行うことになるだけで、技術的合理性は揺るがない。
  • イギリスとカナダ:科学と行政の混ざったプロセスで政策が決まり、不確実性はあまり市民に知らされない。
  • アメリカ:公衆が多く関わるため、民主的ではあるのだが、対立が激化して手詰まりになりやすい。

このように、各国ごとにリスクに関する意志決定のありようは異なっている。このことは、リスクに関するアセスメントや意志決定が社会的に構築されたものであることを示している。