二極分解と余裕の社会学(案)

矢澤修次郎先生のホームページから。1月20日の分。

http://diary4.cgiboy.com/0/yazawadiary/index.cgi?y=2007&m=1

このところ、総てのものがファナティックになっている感がする。外交も強行路線。社会も二極分解。雪印不二家などは、でたらめをやったのだから当然とも言えるが、倒産などにまで追いつめるのはどうか。関連産業は、零細企業、商店で、彼等はすぐに生活問題に響いてくる。そうかと思えば、今日はセンター入試。マニュアルには、こうした場合にはこう対応せよと、事細かに書かれている。事例がそんなところまでと思わせる程、事態はファナティックだ。受験生も、1−2分で、自分の人生が左右されてたまるかという心情だろうが、もう少し余裕を持って立ち向かえないものだろうか。賞味期限も目安から、それを越えたら絶対駄目と言わんばかりになってきた。ここでも余裕を見つけ出すことは難しい。知恵を発揮して、この精神の余裕を持って欲しいものだ。

最近、社会学者を含めてたくさんの人がぼやいたり懸念していることなのだが、この「極端さ」「余裕のなさ」は社会学的にはどう扱えるんだろう。うまく扱えたら、非常にいい研究(ベック『リスク社会』以来の大ヒット!)になると思うのだが、うーん、どう考えて、概念化すればいいのか。

ファシズム全体主義、あるいはポピュリズムというのも一つの手がかりではあるだろうが、それだけに回収される問題でもない気がする。矢澤先生の挙げる事例すべてに共通する何かがありそうである。

こうした「余裕のなさ」は、世論・社会意識のレベルでは比較的捉えやすいと思うんだけど、その社会的帰結(倒産)や、政策(外交)、制度(センター試験)も含めて、それらを通底する「余裕のなさ」問題の構造をどう分析したものか。

自分の場合は、たぶん食中毒とかリスクがらみの方から入るのがいいのだろうなあ。経済学で、株の投資戦略として最も鋭敏に合理的なものを選ぼうとすると、かえって失敗するみたいな議論があったと思うが、そのへんにも手がかりがあるかも。博論が終わったら、考えてみたいテーマの一つである。

とりあえずの手がかり。一般には、制度が再帰性を持つことは柔軟な対応を可能にするが、ある種の再帰性(世論におびえる行政・企業とか)はかえって制度から余裕を奪う。では、そうなる条件は何か。世論のように、相手方が交渉相手にならない場合(≒実在しない)とか? もう少し特定すると、再帰的であることから両者を結ぶ回路は開かれているわけだが、その回路がある一点、一本の線(マスメディア)に限られている場合とか。

「官僚制の逆機能」の議論との関係も詰めねば。精緻化、没人格化、効率化、科学化、情報公開、責任と責任回避。
時間をかけて考える必要あり。