フィッシャーの顕微鏡

まずは、下の引用を見ていただこう。

完全ではないもののほぼ焦点が合い、しかも焦点調節以外の点ではくっきり像を結ぶように調整された顕微鏡を考えてほしい。もしこの顕微鏡の状態をでたらめに変化させたとき、さらに焦点が合って像の質が全般的に向上するような見込みはどれくらいあるだろうか?

答えは、次の引用の通り。

どんなふうにであれ大きく動かしたときには、調整がさらに進む確率はきわめて低いが、顕微鏡の製作者や使用者が意図した最小の動きよりもずっと細かく動かした場合には、改善される確率はほぼ正確に二分の一になることは、充分あきらかである。

「充分あきらか」というのは、この例を使ったフィッシャー(歴史上最も偉大な統計学者の一人)の言い分であって、普通はそれほど明らかでもないと思うので説明しておこう。

顕微鏡の仕組みはよくわからないけど、焦点というのは、どこかの点で一番よくなって、そこから離れるほど悪くなる。だとすると、焦点の合い方は2次元に直すと、上向きに出っ張った二次関数みたいに表せるはず。ここで、顕微鏡を大きく動かすというのは、ランダムに別の一点を選び直すことを意味し、少しだけ動かすというのは右か左にわずかに動くことを意味する。

初期状態はほぼ焦点が合っているから、そこからランダムに動かすと悪化する可能性がきわめて高い。他方で初期状態は凸曲線の頂点ではないので、右か左かどっちかに動かせばプラスになるはず。

よって、フィッシャーの言った答えが導かれるわけです。

この話の元ネタは、リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』(2004年、早川書房)。この本の369ページに上の引用が出てきます。

盲目の時計職人

盲目の時計職人

ドーキンスは現在の進化生物学を代表する名うての論客。現在の動物が今あるように複雑で機能的なのは、神の意志とか、動物の内包する進化の方向性の帰結とか、全くの偶然とかではなく、自然淘汰の累積によるものだというのが彼の主張の中心です。

現代のダーウィン主義者の代表として、古い自然淘汰の考え方(群淘汰など)に対して、遺伝子レベルでの淘汰を主張しております。その主著『利己的な遺伝子』は、少なくとも題名だけはかなり有名なはず。彼の強烈な批判は、創造論者(進化論を信じず神による創造を信じる人たち)やエセ科学者はもちろんのこと、進化論の正しさを訴えるという点では共通しているスティーブン・ジェイ・グールドにまで及んでます。

ここで取り上げた「盲目の時計職人」は、たぶん一般向けに書かれたエッセイで、自らの学説の正しさを繰り返し強調するとともに、科学的思考とはどんなものか、どういう考え方が科学に反しているのか、をわかりやすく伝えることを目的にしています。

さて、それではドーキンスはなぜフィッシャーの小話を取り上げたか。

フィッシャーの顕微鏡の小話が含意しているのは、一発の突然変異でより環境に適応した生物が誕生する可能性よりも、漸進的なわずかの変異によって適応度が高まる可能性の方がはるかに高い、ということ。こうして、遺伝子レベルの淘汰の累積という自らの主張の正しさを示そうとしているわけです。

この例をみて、一瞬これって急進主義に対して漸進主義を推す理由づけに使えるかなあ、と思ったんだけど、それは無理そうだね。急進主義というのは、理想の社会像に向かって社会を一気に変革しようという考え方で、それに対して漸進主義は、理想は措いといて、少しずつ社会がよくなる方に改良していくべきという考え方。

なんか話としては顕微鏡の例に近いと思うんだけど、決定的な点で両者は異なる。社会変革の場合は、理想の目標というのを認識して、それに向かって前進していくことができる。自然淘汰には「目標」も「認識」も「前進」もない。

でも、顕微鏡の調整の場合には人間がやるんだから、「目標」「認識」「前進」があるじゃん、とお思いのかた、あなたは大変に鋭いです。が、しかし。このアナロジーを作ったフィッシャーは、そうした批判に対する予防線をあらかじめ張ってあるのです。「製作者や使用者が意図した最小の動きよりもずっと細かく」の部分がそれ。これによって、先を見通せないという条件をさりげなく追加している。

この条件がなければ、顕微鏡でどっちに動かしたら焦点があったか、みたいな情報を集約していって、それに基づいて行動を決定できるから、ずばっと大きく動かして、いきなりずっと良い状態に持っていくことが可能になり、上記の問いの答えは全然違うものになってしまうわけだ。

こういった話とか進化論とかに関心があるなら、ドーキンスの本は必見でしょう。私の知ってる限りでもう1冊、『虹の解体』という本もあって、全体としてはこっちの方がおもしろい気がします。なんとなく、現存する生物の適応度の高さを強調しすぎている嫌いはあるが(あくまで表現上の問題なんだろうけど、そうは言っても気になる)、きわめて明晰に書かれているし、よい本だと思います。

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

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