暗黒の中世と万能の天才

舌を出したアインシュタイン―ひとり歩きした科学の神話

舌を出したアインシュタイン―ひとり歩きした科学の神話

この本は、ニュートンのリンゴとかアインシュタインの舌とか、そういった科学神話を取り上げ、それがほんとかウソか、当時の社会情勢から見て、ほんとに実現可能だったのか、そもそも、その神話の内容ってそんなにすごいことなのか(ユーレカと叫びながら裸で走るのって、なんかすごいの?)、みたいなことを検討するもの。

よくあるタイプの本ではあるけれど、類書と比べて

  1. 科学がわかってるっぽい(たぶん)
  2. 文系的な事柄にほんとに詳しい(さすがフランス人)

の2つを同時に満たしている点がすばらしい。

通説では、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は万能の天才ということになっている。代表作モナリザを初めとして、すぐれた絵を書いただけでなく、科学的・技術的な方面にも優れていた、と言われる。

なぜ科学技術の側面でも天才だったとされるのか。それは、これまでに彼がスケッチした沢山の手稿が発見されており*1、それらを見ると、戦車や空飛ぶ機械、ヘリコプター、パラシュート、キャタピラー、潜水艦、シュノーケルなどの原型のように見える絵や図が描かれているから。

それで、こうした手稿を見た近代・現代の人たちは、ダ・ヴィンチは現代に通用する様々なメカのアイデアを、時代から全く先駆けて生み出した大天才だと考えたわけだ。

著者たちが言うには、こうした考え方の最大の問題点は、それらのメカはひょっとして彼よりも前の時代の人が考案していて、彼が行なったのはその模写や改良だったんじゃないか、という可能性がまったく考えられていないこと。

で実際には、その多くはもともとタッコラやジ・ジョルジョといったルネサンス初期の技術者たちのアイデアだったりするわけだ。

そもそもなぜ、レオナルド・ダ・ヴィンチは万能の天才とみなされたのか。その背景には、たんに「一般人は英雄を好む」というだけではない、根深い原因があると著者たちは見る(このあたりから文系的になる)。

その背景とは、西洋中世は暗黒の時代だったという歴史観である。近年では、スコラ哲学のまじめな検討とか中世人の心性史とか、もろもろの研究によって完全に否定されているけれど、ある時期まで、西洋の中世は暗闇、つまりその期間は絶対的な封建制度の下でたんなるキリスト教解釈学であるスコラ哲学が学問のすべてを占め、知的進歩はなく、技術革新もたいしたことがない時代だった、とされていた。それがルネサンスによって一挙に大変革を遂げたと考えられていたわけ。

こうした歴史観を背景にすると、ダ・ヴィンチ以前の中世には何の技術的蓄積もないはずであり、ということはダ・ヴィンチのアイデアはすべて彼自身が生み出したもののはずである、ということになる。

そういうわけで、「暗黒の中世」史観に支えられる面もあって、ダ・ヴィンチは英雄視されてきたのではないか、というのが著者たちの見解。

引用されている数学史家チャールズ・トゥールデルの指摘。

レオナルドにきらめくような直観はあるものの、『彼がなした科学上の重要な発見は一つもない』ことがわかる。

どこかで「ダ・ヴィンチの頃は技術・芸術のレベルが高くなかったので、彼のような万能の天才が生まれえたが、高度に発展した現在では無理だ」と書かれているのを見たことがあるけれど、おそらく本当のところは、いつの時代であっても万能の天才なんて存在しえないのだろう*2。そう言い切ってしまうのは夢がない話ではあるけれど。

*1:本書によると今それらはビル・ゲイツの手元にあるらしい。

*2:フォン=ノイマンは万能の天才に見えなくもないが、量子力学ゲーム理論も爆発制御も、結局は応用数学だし。そうは言っても十分偉大ではあるが。