和歌

これまで和歌(俳句にせよ短歌にせよ)の意味がさっぱりわからなかったが、朝日新聞朝刊の大岡信「折々の歌」を毎日読んでいるうちに、ようやく少しだけわかってきた。

和歌の原則は、必ず具体的な一時点の、単一の感情(心象風景)をうたったものでなければならない、という点にあるみたいだね。回顧が混じることもあるが、その場合も回顧している「今」が重要。

「一時点」をできるだけ端的に表現するために、季語を多くの場合に伴うことになる。

感情や心象風景といっても、「きれい」とか「悲しい」とか、そんな単純なものではない。
(そういえばテレビで、「最近の若者は語彙がなくて、いやなことを全部ウザイとしか言えなくなっている」って言ってたなあ)

色々なしがらみとか背景があって感情が成立するわけだから、一言では済まず、まあ17〜31文字程度で具体的に表現することが必要になる。これだけの字数を費やして、初めて一つの感情・心象風景を言い尽くせるわけだ。

こうした「一時点の感情」がまず根底にあって、次に感情をストレートに表現するのはなんか下品だし恥ずかしいから、ちょっと連想やらユーモアやらを交えてみましょうかね、となる(掛詞とか)。

「あし引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」柿本人麻呂

秋の夜長は一人だとさみしいな、といった単一の感情を、もっと生き生きとレトリカルに表現しているわけです(この歌は、やっぱりなんかうまいよなあ)。

ちなみに、高貴な人はあまり個人的感情を持つべきでないことになっているので(他人への思いやりが感情表現の中心)、もう少し曖昧模糊とした心象が詠われることになる。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

こうした「一時点」「単一感情」という性質は、中国の漢詩(五言絶句とか)とは明らかに違う気がするなあ。たとえば、孟浩然の「春暁」。

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

「春はあんまり眠くて日が出ても気づかないよね。
 いつのまにか鳥があちこちで鳴いてるよ。
 そういえば、昨夜は雨風が強かったなあ。
 花も多少は落ちちゃったみたいだね。」

といった意味だと思うんだけど(たぶん)、これは単一の感情ではないよね。春の暁に思ったことを述べてはいるのだが、4つの行が一つの感情に収斂しそうにない。他にも、明らかに時間経過やストーリー(起承転結)を内部に含む漢詩もある。ヨーロッパの詩はどうなんだろう。現代の詩は、和歌的なものと、漢詩的なものの中間くらいかな。

これまで自分が理解できた気がした詩は、たいていがストーリー(オチとか)のあるものだったので、「短歌は全体で一つの感情」というのは発見でした。

わかってる人には当たり前なんだろうけど、この歳にしてようやく和歌が少しわかってきました。