シロイヌナズナはナズナではない

変わる植物学広がる植物学―モデル植物の誕生

変わる植物学広がる植物学―モデル植物の誕生

分子生物学によって植物学・植物研究はどう変わったか。本書は、シロイヌナズナという「モデル植物」の成立を切り口に、分子生物学の衝撃を鮮やかに描き出す。とても面白く、勉強になる。

そして何より、著者の文章がうまい。研究上のいろいろなエピソード・裏話と分子生物学の最新の知見、そして、それによって我々が高校で習ってきたような古典的な生物学がどう変化を被ったか、がうまく融合し、非常に面白いストーリーとして語られている。

以下、興味深かったところのメモ。

モデル以外の自由課題を後回しとし、まずはみんなで分担して(あるいは競争して)、モデル種を共通課題にすることで、徹底的に隅から隅まで調べ、その基本的メカニズムを知ろうというのである。容易に想像されるように、こうすることで、研究の進展は飛躍的に速くなる。(3)

研究がひとたびシロイヌナズナに一点集中するや否や、状況は一変した。まるで、研究者人口が一気に増えたかのような効果が生まれたのである。そもそも、花芽形成のように高次な生命現象の場合は、その理解の上で、ホルモンの効果に関するデータや光感受に関するデータ、分裂組織の挙動に関するデータなど、多くの他の研究ジャンルの総合的理解が欠かせない。従来は、そうした他ジャンルのデータも、先に見たように、それぞれてんでバラバラの材料に関する情報の寄せ集めで、それがどこまでそのまま自分の研究材料に適用できるのか、皆目わからない状態だった。それに対して、すべての研究ジャンルで足並みをそろえ、シロイヌナズナの解明を進めるようになった効果は甚大であった。期せずして互いの研究を強力に促進し合う相乗効果が生まれたのである。(34)

一つのモデル系にあまりに集中すると、どこまでが一般則で、どこからが特殊ケースかの境目が見えなくなってしまう。まして、自分の研究ジャンルこそがすべてとばかり、井の中の蛙[←著者は「酵母ボケ」などと呼んでいる]のようになってしまっては、決してよい仕事にはつながるまい。(127)

ABCモデル:A、B、Cの3つのアイデンティティ決定因子が単独ないし対になって働くことで、4種の花器官の性格付けが行われる。なんと、こんな単純な(シンプルでエレガントな)形でこれらの器官が分化しているのだ!(28-29)

  • A+B:花弁(花びらの一枚一枚)
  • B+C:雄しべ
  • C:心皮(雌しべの構成単位のこと)
  • なし:葉

モデル生物の変遷

  1. 大腸菌:身近で、簡単に増やしたり操作したりできる原核生物
  2. (出芽)酵母:身近な真核生物、単細胞性
  3. シロイヌナズナ:多細胞生物

相同と相違の破綻(110)

  • 相同器官:共通の祖先器官に由来する
  • 相似器官:進化の道筋が違い、他人のそら似に過ぎない e.g. ショウジョウバエの脚とヒトの手足

これまでの生物学は、両者の区別を重視してきた。分類学でも、近縁な種のケースと、遠縁だが見かけがそっくりに収斂しただけのケースの区別が重視されてきた。

しかし、分子遺伝学によって、相似器官にすぎないはずのショウジョウバエの脚とヒトの手足とが、遺伝子制御の視点からはまったく同一の仕組みでできていることが明らかに。こうして、これまでの伝統的見解が根底から覆された。

RNAiと「ジャンクDNA(138-)

  • 生物のゲノムDNAの中には、mRNA(→タンパク質に翻訳される)にもrRNA(→リボソーム(タンパク質が作られる場)を構成する)にもtRNA(→mRNAからタンパク質への翻訳の際の運搬役?)にもならない領域があった(「ジャンクDNA」と呼ばれていた)
  • そこに、RNA干渉の引き金になる、いろいろなnon-coding RNA(ncRNA)がコードされていたことが明らかになった →ジャンクと言っても、まだ機能がわかっていないだけ
  • RNA干渉(RNAi)=mRNAと相補的な配列を持つ低分子RNAを引き金にして、mRNAを分解して遺伝子発現制御を行うメカニズムのこと

DNAとゲノムという共通言語(163)

分子生物学者とは、DNAとかタンパク質とか、分子のことだけ調べる研究者ではない。分子生物学者は、自分の知りたいテーマに関して、分子生物学の手法はもちろんのこと、どんなテクニックでも、生理学でも遺伝学でも解剖学でも、とにかく何でも使って解明してやろうとすべきだ(164)

分子生物学が発達し、DNAやゲノムという共通言語が普及したことで、これまでの生物学内の研究分野間の垣根が急激に低くなった。「分子[やDNA]という共通言語を介して、知識の蓄積されたプールが共有化され」、「かつまたそれに対してのアクセスが、半ば当然の義務となった」(164-165)。「高次機能と遺伝子の機能との間には、・・・多くの階層性が横たわっているので、昔のような生理学、形態学、生化学のような壁を気にしていては進まない。なにより、遺伝子の配列を見たとたん、思いもかけない分野の話になることは、決して珍しくない」(188)。

ちなみに、タイトルに書いた「シロイヌナズナナズナではない」。もともと植物名における「イヌ・・・」は「・・・もどき」という意味。ナズナという花の白い植物が、まず日本語の世界にある。次に、ナズナと感じは似ているが花の黄色い別種の植物が、イヌナズナと日本語で命名された。そして、イヌナズナに似ているが花の白い植物が、シロイヌナズナ命名されたのである。だから、シロイヌナズナはまったくナズナではない。

しかし、シロイヌナズナから植物の分子生物学的研究に入って、それしかやっていない人の中には、うっかりこれを「ナズナ」と呼び、本当にナズナだと誤解している人もいるらしい。