玉野和志『東京のローカル・コミュニティ』

東京のローカル・コミュニティ―ある町の物語一九〇〇‐八〇

東京のローカル・コミュニティ―ある町の物語一九〇〇‐八〇

第1章 東京の発展と「この町」の成立
第2章 町内社会の成立と展開
第3章 お神輿と町内社会の世代交替
第4章 母親たちの挑戦
第5章 もうひとつの地域
第6章 さらなる都市化と地域の変貌
付録 方法論的な補遺

山手の住宅地と下町の商店街・町工場の情緒をあわせもった「この町」.ひとりの社会学者が住民への丹念な社会調査を通して描いた四つの物語――町内会体制の成立,世代継承としての祭り,母親たちの教育文化運動,創価学会の地域活動.それは大正・昭和期の東京の生きた歴史である.

という紹介文にだいたいの内容は表れていると思うのだが、1986年から1999年までの期間、およびその後も、一つの町をずっとフィールドワークした調査の結果をまとめたもの。さすがに長年調査しただけのことはあって、オブラートにくるんではあるものの、「この町」のいい面悪い面、さまざまな顔が重層的に浮かび上がっている。各章で出てくる「この町」の姿はきわめてリアルで、個々の記述の一つ一つが「そういえばそんな感じだった」と子供の頃の思い出を刺激して、戦後日本の都市の具体的な姿を開いて見せた非常な労作だと思われます。

この調査の(社会学的な)狙いは以下のとおり。

かつて日本の社会が本格的に都市化していった時期には、これで村落的なしがらみがなくなり、人々は土地や地域の制約から自由になれるという論調が一般的であった。ところが、いつの頃からかやはり人間はある程度土地に定着して生活していくもので、それほど日頃からべったりとはしないにしても、いざというときにはやはり助け合えるだけの地域的なつながりが必要なのだといわれるようになってきた。・・・それでは、われわれは都市的で移動の可能な社会の中で、どのように地域社会を生きてきたのか、少なくとも地域における何らかの共同を維持してきた人々は誰であり、どのようにそれを育んできたのか、そのことをまず確認する必要がある。(18-19)

一つ気になったのは、著者がストーリー性を重視したためか、この本全体の目的が少し見えにくくなっていること。上述の狙いの記述も、うっかりすると見落としてしまいそうだった。この本に取り上げられた4つの物語(2章〜5章)が全体の中でどのように位置づけられるのか、そもそもなぜこの4つなのか、も冒頭部分ではっきりとは書かれていない。

しかしこの4つは、都市における「町」とは一体何か、を明らかにするという明確な社会学的意図があって選び取られたものなのです。

まずは、「町」と言ったときに最初に想起されて、ベースになる部分について見ている。第2章では東京のような都市の中で町内会を中心にして「町」がどのように成立したのか(第一世代)、第3章では、こうして成立した「町」が「伝統」をもったかけがえのないものになっていく過程(第二世代)を記述している。

その上で、こうした表の顔、町内会体制とは違う町の側面を見ていくことになる。その一つが町内会の部分的承認と反発の中で、町内会とは別の組織編成(革新自治体の頃は、「町内会」と対比して、こうした動きこそが「コミュニティ」と呼ばれていたらしい)で進められた母親たちの活動であり(4章)、もう一つが、町内会とは距離を置きつつ「町」の中で信仰を通じた強い社会的連帯を形成してきた創価学会の活動(5章)である。

このように、都市における「町」とは一体何か、という問いに対して、「コミュニティが大事だ」とか「町の伝統なんて作られたものだ」といったような教条を掲げることなく、1900〜1980年という80年間(!)のスパンで表裏さまざまな面から丹念に見ていったのが、本書なのである。

しかも、これら4つの章で取り上げられた人たちの活動から「町」が成り立っていることは、サーベイ調査でもはっきりと示されている。

86年調査の集計結果によって、なんらかの地域集団に参加して活動する4種類の人々が弁別された。町会を支える高齢層、旧来通り保守政党支持だが活動的な壮年男性、同じく活動的だが支持政党なしの壮年女性、そして創価学会員と思われる人々である。その後の調査は結果として長い年月を費やすことになるが、行ったのはこの最初の調査の知見を具体的に裏づけていくという作業であった。(281)

なるほど、と納得なのだが、やっぱりこういう事実は巻末ではなく本の冒頭でばばーんと書くべきではないかと。「方法論的な補遺」を読んで、ようやく全体の社会学的構図がはっきりと見えて、しかもそれが定量的に裏づけられていることがわかった。

本書は「明快なストーリー」「小説風の物語」「物語風にまとめられた事実の提示」として書かれていて、フィールドワークをする上でこんなデータを集めた、こんな工夫をした、こんなに苦労した、みたいな話はほとんど書かれていない。そして、最低限のことだけが社会学者向けとして巻末にまとめて書かれている。

「明快なストーリー」という著者の狙いは十分に果たされていると思うのだが、ちょっと気になるのは、調査のノウハウや苦労話というのは、実は社会学者だけでなく、一般の人が読んでも楽しめる部分じゃないかなあ、むしろそういうのを織り込むことで、一般読者の関心を強く惹きつけられるのではないか、という点。

広く読まれているジャーナリストを何人か考えてみると、本田勝一さんにせよ日垣隆さんにせよ、おれはこんなふうに調査したのだ、まねできないだろ、すごいだろ、というのを結構前面に出していて、それをみんなが楽しんで読んでいると思うのですよ。

本書で行われている調査も、それこそ「ドーアやベスタのような外国人」(305)だけでなく、日本人の社会学者でもなかなかできないレベルに達しているのだから、調査のすごさみたいなのをもう少しアピールしてもいいのかな、という気がしました。

未来予測は専門家の仕事?市場の仕事?

「みんなの意見」は案外正しい

「みんなの意見」は案外正しい

ゴールトンの観察した、牛肉の重量当てコンテスト。800人の参加者が行った予測の平均値は1197ポンドだったのに対し、正解は1198ポンドであり、予測の平均値は驚くほどに正確だった。参加者の大半は重量当てについて何の能力も持っていないのに、なぜこんなに正確な結果が出てくるのか。

もう一つ、1968年5月に消息を絶ったアメリカ海軍の潜水艦の事例。広さ32キロ四方の範囲で探さないといけない。それぞれ別の知識を持っていそうな人たち(数学者、潜水艦の専門家、海難救助隊など)に別個に位置を予測してもらい(シーバス・リーガルのボトルを賭けた)、ベイズの定理?を使って情報を集約した。集合的な予測は、実際の潜水艦の位置と200メートルしか違っていなかった。

こうした事実をもとに、著者は大胆な主張を展開する。

専門家を追いかけるなんてことは間違いで、しかも大きな犠牲を伴う間違いだというのが本書の主張だ。専門家を追いかける代わりに、集団に答えを求めるべきなのだ(p11)

とは言っても、集団であればいつでも正しい答えを出せるわけではない。群集心理とか「衆愚政治」とか、みんなで間違った方向にまっしぐら、ということもある。それでは、正しい答えを出せる賢い集団の条件とは何か。著者は以下の4つを挙げる(p27-28)。

  • 意見の多様性:それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている
  • 独立性:他者の考えに左右されない
  • 分散性:身近な情報に特化し、それを利用できる
  • 集約性:個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在

こうした賢い集団を、ある意味で典型的に表現しているのが「市場」である。市場はさまざまな私的情報を持った多様な参加者を抱え、各人が自己利益を最大化しようと独立して動き、そうした振る舞いが市場メカニズムによって「価格」へと集約される。

ここから、賢い集団の機能を有効活用するものとして、未来予測市場というアイディアが出てくる。「いつどこでテロが起こるか」などの政策的テーマを予測させて、当たると報酬が出るという仕組みである。米国ではすでに試験的な試みがいくつか始まっているらしい。悲劇を予測させるのは不道徳だという批判もあるが、しかし、CIAは予測をやってよくて、一般の人はよくないという道徳的な理由はない、と著者は反論している。

CIAなどが採ってきた従来のモデルは、少数の精鋭に情報を集約させるというものである。未来予測市場とどちらが優れているか。著者の主張は、すべての情報を集約して処理できる精鋭などというのは存在しえない、というものである。その点、市場は精鋭よりも広い範囲の情報に反応して動いていくので、より正しい結論に近づく。

***

ここでのポイントは、「予測」ということだろうね。何らかの実践を伴うならば、当然その道の専門家にしかできない。乗用車を前にして、それの最高時速が何?かは誰でも予測できるし、おそらくカーマニアが最も正確に予測できると思うが、カーマニアは乗用車を自ら作ることはできない。自動車を作れるのは、自動車の専門家だけである。

予測というのは、専門から見て、きわめて外在的な行為である。予測という形でしか問題に関われないならば、その人はもはや専門家ではない。・・・というのはさすがに言い過ぎだが、専門家というよりは「評論家」と呼んだほうがいい存在になってくる。国際情勢の「専門家」はこの点でビミョウな位置にあるし、マスコミを情報源にして時流に乗った研究をしている社会学者もかなり危ない。

科学と予測の関係について考えてみると、すぐれた科学はしばしば予測する能力を持つが、その本質はむしろ、予測と評価を可能にするようなモデル構築・条件整備と、その条件の下でのデータ生産にあると思う。えられたデータを使って未来を予測するのは素人でも可能だが、予測する際に使うデータや予測結果を評価するのに使うデータは、専門家でないと取得/生産できない、というのがポイント。専門外の人たちは、専門家の作ったデータ・枠組に寄生して、予測を行うことになる。

ただ、そうだとすると、行政からもらうデータを使って議論するだけの審議会の学者委員たち(もちろん、自分で研究をしている委員もいるけど)は一体なんなのか、という話になる。あれはほんとに、未来予測市場なりなんなりで代用してもいい気がするなあ。

Hannigan: Environmental Sociology関連部分の要約

Environmental Sociology, Second Edition (Environment And Society)

Environmental Sociology, Second Edition (Environment And Society)

John Hannigan: Environmental Sociology (Second Edition), 2006 Routledge.

第1版は「A Social Constructionist Perspective=社会構築主義の立場から」という副題が付いていた。

構築主義の視点・枠組をベースにしながら、環境社会学のこれまでの研究成果をうまく整理している(まだ二つの章しか読んでいないけど)。ここでは、構築主義と言っても方法論的な制約とかはあまりなくて、

  1. 環境問題が提起される(構築される)社会的プロセスを分析対象とする(問題であることを自明視したり、安易に「客観的被害の帰結」としたりしない)
  2. そのプロセスで作用するメカニズムを社会構造・経済的利害の面だけでなく、クレイム・レトリック・アリーナ(議論が行われる場)・言説の面からも分析する

といった程度の意味だと思う。


第7章 科学・科学者・環境問題

クレイム申し立て活動としての科学

Aronson(1984)は科学者による知識クレイムを以下のように分類している。

  1. 認知クレイム:科学が明らかにした事実を述べる(レトリックを使って、発見を強調したりもする(Blakeslee(1994)のPhysical Review Letters誌の分析))
  2. 解釈クレイム:科学が明らかにした事実が社会的にどのような意味を持つか、なぜ社会的に重要かを述べる
    1. 技術型の解釈クレイム:研究者が行政や企業のアドバイザーになり、リスクの社会的影響を評価する。Salter(1988)の「委託された科学(mandated science)」の議論。
    2. 文化型の解釈クレイム:研究推進や科学の自律性が社会にとっていかに重要かを説く。
    3. 社会問題型の解釈クレイム:社会問題が存在しており、それを自分たちの研究が解決できるのだ、と説く。
  3. 研究の欠如ignoranceクレイム:「こんなに大事なのに研究されていない」と主張する

社会問題型の解釈クレイムがでてきやすい社会状況は・・・

  • 新しい専門分野ができつつあるとき、科学の内部でのサポートはまだ得られないため、社会の側に訴えることで研究資源を得ようとする。こうした動きは当然のことながら主流派の科学者から批判される(Rycroft 1991)。
  • 野心的な研究者は、自らの研究成果によって社会的注目を集めている問題が解決できることをアピールして、研究費を得ようとする。1970年代のガン研究、1980年代のAIDS研究。
  • 社会運動によって研究が拘束されようとしているとき、科学者はなぜ研究が必要なのかを訴える。遺伝子工学

科学的不確実性と環境問題の構築

WynneとMayer(1993)は、環境が危機にあるとき、科学と政治の間に明確な境界はないとして、予防原則の重要性を訴えている。予防原則には批判もあるが、いずれにせよ大きな社会的潮流として、重要になりつつあるのは確か。

鍵になるジレンマは、環境問題に関するクレイム申し立ては科学に裏付けられているほうが強固であるが、そもそも何が科学なのかについて合意がない、ということ。

環境問題が科学的問題となる過程

環境問題が浮上するとき、大体の場合はその背後に長い科学的探究の歴史がある。地球温暖化酸性雨など。では、なぜあるとき急に社会問題化するのか。

  1. 実際の/認識された状況が急速に悪化した場合。生態系の問題など。
  2. 新しくデータが集められるようになって、問題の深刻さが見えてきた場合。酸性雨の問題など。
  3. 環境問題への関心がある問題から別の問題へと連鎖して広がっていく(例、熱帯雨林の問題が先進国で問題になる)。
  4. ある地域的な問題のために作られた組織が、今度は新しい問題が構築される過程で中心的な役割を果たす(例、1976年の大干ばつ→気候研究のプロジェクト→地球温暖化問題(Liberatore 1994))。

カミング・アウト:新しい環境問題を世界に訴える

科学者はどうやって問題を世間に訴えるか。無難な方法は、科学者・企業人・行政官などが参加するフォーラムの場で発表すること。しかし、いきなりマスメディアに発表して、その後にようやく学術論文が出たケースもある(酸性雨の問題)。

科学と環境政策

国境を超えた科学者たちの認識共同体 epistemic communities(Haas)。この認識共同体が、オゾン層の問題や地球温暖化問題で大きな役割を果たした。今日ではFriends of the Earthやグリーンピースなどの環境団体もPhDを取得したばかりの研究者たちを雇い入れるようになり、こうした団体と行政の政策決定者の間でも、部分的にだが認識共同体が成立している。

政策の窓policy windowsの議論(Marchらのゴミ箱モデル→Kingdonが発展させた)。普段は(1)問題の認識、(2)政策の形成・修正、(3)政治、がそれぞれ別個に動いているが、特別な機会(政治の窓が開くとき)にそれらが結びつく。HartとVictor(1993)はこのモデルを地球温暖化問題に適用し、1970年代前半に環境運動が盛り上がったときに窓が開いたと論じている。

環境問題の解決過程における科学の役割

Susskind(1994)は環境政策の決定過程における科学者の役割を5つに分類している。

  • 新トレンドを発見する人
  • 理論を構築する人
  • 理論を検証する人
  • 科学コミュニケーター
  • こうした一連の過程を分析する人(応用政策分析)

規制科学と環境

Jasanoff(1990)は、環境問題の規制の文脈で、従来の伝統的な科学とは幾つかの点で異なる性質を持つ「規制科学regulatory science」が成立していると論じている。科学知識をめぐる交渉・構築過程を分析している。


第8章 リスク

サーモンをめぐる二転三転:養殖サーモンにたっぷり含まれる脂肪が心臓病のリスクを減らすと言われて、喜んで食べていたのに、養殖物には天然物の10倍の発ガン性物質が含まれることが明らかになった。リスク分析すると、発ガン性物質のリスクのほうが大きい、という主張が出てきたのである。これに対して、米国FDAは養殖サーモンの汚染は大したことないとリスク分析に基づいて主張した。それにもかかわらず、米国でのサーモンの人気は低下した(2004年頃)。

今日の社会では、リスクの認知・評価が個々人の行動に大きな影響を与えている。リスク分析を生業にする人たち(Risk professionals)の成立(Dietz & Rycroft 1987)。

リスクと文化

DouglasとWildavsky(1982)のリスクの文化的理論:今日の社会でのリスク認知(どのリスクを重視し、どのリスクを軽視するか)は、個人主義(individualist=市場に任せておけ)、上意下達主義(hierarchical=政府が管理する)、平等主義(egalitarian≒New Ecological Paradigmへの価値コミットメント)の3つの考え方の組み合わせから成立していると捉えた。

DouglasとWildavskyがリスクに対してとった相対主義の立場は批判もされてきた。Wilkinson(2001)はDouglasのリスク理論とBeckのリスク理論を比較して、両者ともリスクをあくまで社会の観点から分析する点で共通しているが、Beck現代社会のリスクが実際に大変なことをもたらしうると考えているのに対し、Douglasはそうした預言者的な見方に懐疑的な点で異なる、と指摘している。

リスクを社会学的に見ると・・・

多くの社会学者はDouglasほど徹底した相対主義ではなく、自然科学的なリスク分析が、リスクをめぐる社会的メカニズムの中で枢要な位置にあることを認めている(例、Renn 1992)。

Dietz et al.はリスクの社会学における現在の潮流を3つに整理している。

  1. リスク認知はアクターの社会的属性や問題の社会的文脈に応じてどのように変わるか。
  2. リスク認知が対人関係やマスメディアを通じてどのように流れていくか。
  3. 複雑な技術システムにおけるリスクの組織社会学的研究(Perrow 1984)。

リスクが社会的に定義される過程

Hilgartner(1992)はリスクの社会的定義に注目する必要があると論じている。あらかじめ対象が明確に決まっていて、それのリスクが論じられるのではない。リスクが論じられる過程で対象が分離され、リスクの源として措定されるのである。

リスクが構築される場(アリーナ)

こうしたリスク問題をめぐる論争は、複数の社会的アリーナの中で扱われる(Hilgartner & Bosk 1988; Renn 1992)。アリーナ論は、ゴフマンのドラマトゥルギー・モデルによる社会関係の分析、エーデルマンの象徴モデルによる政治の分析、マッカーシー&ザルド一派の資源動員モデルによる社会運動の分析などを下敷きにしている。

リスク構築の過程で最も重要なのは、専門家たち(科学者、技術者、法曹、医師・・・)が中心になるアリーナである(Hilgartner 1992: 52)。これらの専門家たち・実務家たちはリスク構築で中心的な役割を果たし、お互いがお互いの活動を象徴として利用しあい、全体として環境問題の社会問題の中での位置づけを高めている。

DietzとRycroft(1987)はワシントンに拠点を置く228人のリスク専門家・実務家たち(risk professionals)を分析し、彼らが環境運動・シンクタンク・大学・法曹・企業・EPA・その他行政など、多様なところに所属しつつも、相互に密接なコミュニケーション・ネットワークを形成していることを明らかにしている。

権力、環境リスクの社会的構築

リスクが構築される過程での権力powerの働きについて。

リスク専門家・実務家たちは正しく、それに反対する一般市民は間違っている、となりがちなのはなぜか。構築主義の見方を取れば、専門家たちのフレーミングと一般市民のフレーミングという異なる二つのフレーミングがあり、専門家たちのフレーミングのほうが権力が大きいため、そちらが「合理的」「正しい」とされがちなのだと見ることができる(Wynne 1992)。

この権力関係は、リスク問題に関するヒアリング・ミーティングの場で最も鮮明に表れる。専門家たちは次々と資料を出して説明をするのに対し、一般市民は単発の質問を繰り返すことしかできない。部屋の中での専門家と市民の配置も権力関係を反映したものになりがちである。

リスクの問題での権力関係はしばしば性別やマイノリティなどの権力関係に沿った形で表れる。

リスク構築のされ方について国際比較する

Jasanoff(1986)は、国によって文化が異なり、それに応じてリスク構築のされ方も異なると論じている。

  • ドイツ:リスクの問題はもっぱら専門家の判断に委ねられる。世論が沸騰した場合でも、市民を含めて「テクノロジー・アセスメント」を行うことになるだけで、技術的合理性は揺るがない。
  • イギリスとカナダ:科学と行政の混ざったプロセスで政策が決まり、不確実性はあまり市民に知らされない。
  • アメリカ:公衆が多く関わるため、民主的ではあるのだが、対立が激化して手詰まりになりやすい。

このように、各国ごとにリスクに関する意志決定のありようは異なっている。このことは、リスクに関するアセスメントや意志決定が社会的に構築されたものであることを示している。

バカとソクラテスとビジネス本

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

前に読んで、放っておいたんだけど、takemitaさんにつられて。

http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070520/p2

amazonの書評などで高く評価されているだけでなくて、バカとは思えない人が意外と高く評価しているこの本。なんでだろうなあと思いつつ読んでみたんですが、名著とは決して言わないけれど、何か見どころはある本だと思うのですよ。

まず、次の二点を受け入れるのが重要かと。

  1. 解剖学や脳科学の本では全くない
  2. というか、脳や思考の一般的メカニズムの本でさえない

この人の経歴とか、たまに出てくる自然科学的な物言いとかに騙されてはいけない。この点をわかっていないと、なぜこの人は脳科学者なのに、こんなでたらめな脳の議論をしているんだろう、と思うだけで終わってしまう。

これはあくまで、(かつて一度は)専門を持った人が、専門でないところで書いた本だと理解する必要がある(この点については、あとでもう一度触れます)。

では何の本なのか。ポイントはただ一点。わかっていない人ほど、わかっていると思いこむ。本を読んだだけでわかった気になる、知ったかぶりが一番の困りものである。このことを、手を変え品を変え書き続けているのが本書であり、y=axとかそういうのは説明の手段にすぎない。

本書のテーマが一番はっきりと現れているのは、冒頭の部分*1

大学の授業で、ある夫婦の妊娠から出産までを追ったドキュメンタリー番組を男女の学生に見せたところ、男子は「すでに知っていることばかり」という感想、女子は「大変勉強になった」という感想だった。ほんとは、男子のほうが、妊娠から出産までについて多くの知識を持っていたというわけではない。むしろ、女子のほうが始めから詳しかったはず。では、なぜこういう結果になったのか。

養老は、男子は妊娠→出産というあまり知りたくない情報を自分から遮断して、「バカの壁」を作ってしまっているからだ、と議論している。女子は、いずれ自分がするかもしれない妊娠・出産の実態について強い関心を抱いていることが多い。これに対して男子は、関心がなくて知る意志がないだけなのを、「すでに知っているから」と自己正当化している。「知ってる知ってる」と思いこむことで、ほんとは知らなかったことを知るための絶好の機会をふいにしてしまう。

この事例から描き出される「バカの壁を作る」ことの恥ずかしさや馬鹿馬鹿しさは、なかなか重要な指摘・人生訓ではないかなあ、とは思うのです。

***

養老の議論から少し離れて考えていくと、知らないくせに知っていると思いこむという問題は、ソクラテス以来論じられていることで、人文・社会系の人間にとっては何ら目新しいものではない。

ここでの新しいポイントは、ではかく言うソクラテスが何を知っていたかと言えば、(意味のあることは)何も知らなかった、という点である。養老がやたらに自然科学的な見方や、実体験のエピソードを繰り返すのは、この点を強調するためだ。ソクラテスが知っている(つもりな)のは机上の空論ばかりであって、それでは料理ひとつ作れない、タンスひとつ作れない。「無知の知」なんて議論ばかりしている人間こそが、自分がほんとは大事なことを何一つ知らないことに気づいていないバカの典型例なのである。

これは、たとえばサッカーをテレビ観戦していて知った気になっている人と、ほんとのサッカー選手の違いにも対応しているのかな(養老自身も、こういう例を挙げていたような)。

ざざっと一般化すると、人の知識の状態、知識への接し方は3つに分けられる。

ちゃんと知っている 知った気になっているが、実は知らない 知らない
専門家 評論家 素人
熟練サラリーマン 入社1〜2年目の人、知ったかぶり ふつうの人
理系 文系(科学論者、社会学者) 非学者
企業・社会運動(・学者) (2〜3年でローテーションする)高級官僚、マスコミ 一般市民
プロのスポーツ選手 スポーツ観戦マニア ふつうの人
実験・フィールドワークの達人 教科書バカ 入門者

こうやって考えてくると、本書が世のビジネスマン・サラリーマン(やその予備軍、リタイヤ組)に広く受け入れられたのは、非常によく理解できるね。

ビジネスマンはだいたい自分が本業・専門とする事柄を持っていて、それに自信と誇りを持っている。その事柄について、新人さんや、社外の評論家風な友人に知ったかぶりされたり、知ったかぶりの上に批判までされたりすると、非常に腹が立つ。本書はその怒りのわけを説明し、怒りが正当なものであることを教えてくれる。

ここで大事なのは、養老さんも(たぶん)解剖学という本業・専門を持っていて、その上で、専門を持った人から見た、知ったかぶり人間の弊害を書いているということ。実業や専門的知識、技術を持たない人間が、バカの壁について何を語ろうが、それは言葉の世界しか知らない、知ったかぶりのソクラテスでしかない。本業のある人が語ると、本業のある人しかわからない(はずの)人生訓を語っているという重みが出てくる。ここでは、少なくとも一つは、ほんとに知っていることのある人でないと、ほんとに知っている人の気持ち(知ったかぶりへの怒り)はわからない、という認識が根底にあって共有されているのである。

これは本書に限らず、ビジネス本全般に言えるよね。ビジネス本はだいたいの場合、実業的な専門のある人が、専門以外の事柄(処世術とか人生訓とか人間観察とか)について書くものである。専門は人によって違うから、それについて語るべきことはないけれど(ここで専門については語らないのが重要)、プロだけが抱える、にもかかわらずプロフェッショナルではない部分の悩みについてはアドバイスできるかもしれない。この構図がわかっていないと、何であんなものが売れるのかが理解できないのである。

まあ、このメインテーマには収まりきらない「おじいさんの雑感」が満載なので、すんなりとは入ってこないし、その中にはこのおじいさん自身がバカの壁を作っている(知らないのに知った気になっている)としか思えない箇所も少なくない。しかし、それでもこの本が売れたのはわかるし、売れる価値がある本だろうなあとは思うのです*2

*1:たしかこの本は著者が話したことを編集者が再構成したもので、いい部分が最初に来て、どんどんグダグダになっていく傾向がある。

*2:特に、ある意味では知った気になるのが仕事である社会学者としては、自戒をこめてそう思わざるをえない。

フィッシャーの顕微鏡

まずは、下の引用を見ていただこう。

完全ではないもののほぼ焦点が合い、しかも焦点調節以外の点ではくっきり像を結ぶように調整された顕微鏡を考えてほしい。もしこの顕微鏡の状態をでたらめに変化させたとき、さらに焦点が合って像の質が全般的に向上するような見込みはどれくらいあるだろうか?

答えは、次の引用の通り。

どんなふうにであれ大きく動かしたときには、調整がさらに進む確率はきわめて低いが、顕微鏡の製作者や使用者が意図した最小の動きよりもずっと細かく動かした場合には、改善される確率はほぼ正確に二分の一になることは、充分あきらかである。

「充分あきらか」というのは、この例を使ったフィッシャー(歴史上最も偉大な統計学者の一人)の言い分であって、普通はそれほど明らかでもないと思うので説明しておこう。

顕微鏡の仕組みはよくわからないけど、焦点というのは、どこかの点で一番よくなって、そこから離れるほど悪くなる。だとすると、焦点の合い方は2次元に直すと、上向きに出っ張った二次関数みたいに表せるはず。ここで、顕微鏡を大きく動かすというのは、ランダムに別の一点を選び直すことを意味し、少しだけ動かすというのは右か左にわずかに動くことを意味する。

初期状態はほぼ焦点が合っているから、そこからランダムに動かすと悪化する可能性がきわめて高い。他方で初期状態は凸曲線の頂点ではないので、右か左かどっちかに動かせばプラスになるはず。

よって、フィッシャーの言った答えが導かれるわけです。

この話の元ネタは、リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』(2004年、早川書房)。この本の369ページに上の引用が出てきます。

盲目の時計職人

盲目の時計職人

ドーキンスは現在の進化生物学を代表する名うての論客。現在の動物が今あるように複雑で機能的なのは、神の意志とか、動物の内包する進化の方向性の帰結とか、全くの偶然とかではなく、自然淘汰の累積によるものだというのが彼の主張の中心です。

現代のダーウィン主義者の代表として、古い自然淘汰の考え方(群淘汰など)に対して、遺伝子レベルでの淘汰を主張しております。その主著『利己的な遺伝子』は、少なくとも題名だけはかなり有名なはず。彼の強烈な批判は、創造論者(進化論を信じず神による創造を信じる人たち)やエセ科学者はもちろんのこと、進化論の正しさを訴えるという点では共通しているスティーブン・ジェイ・グールドにまで及んでます。

ここで取り上げた「盲目の時計職人」は、たぶん一般向けに書かれたエッセイで、自らの学説の正しさを繰り返し強調するとともに、科学的思考とはどんなものか、どういう考え方が科学に反しているのか、をわかりやすく伝えることを目的にしています。

さて、それではドーキンスはなぜフィッシャーの小話を取り上げたか。

フィッシャーの顕微鏡の小話が含意しているのは、一発の突然変異でより環境に適応した生物が誕生する可能性よりも、漸進的なわずかの変異によって適応度が高まる可能性の方がはるかに高い、ということ。こうして、遺伝子レベルの淘汰の累積という自らの主張の正しさを示そうとしているわけです。

この例をみて、一瞬これって急進主義に対して漸進主義を推す理由づけに使えるかなあ、と思ったんだけど、それは無理そうだね。急進主義というのは、理想の社会像に向かって社会を一気に変革しようという考え方で、それに対して漸進主義は、理想は措いといて、少しずつ社会がよくなる方に改良していくべきという考え方。

なんか話としては顕微鏡の例に近いと思うんだけど、決定的な点で両者は異なる。社会変革の場合は、理想の目標というのを認識して、それに向かって前進していくことができる。自然淘汰には「目標」も「認識」も「前進」もない。

でも、顕微鏡の調整の場合には人間がやるんだから、「目標」「認識」「前進」があるじゃん、とお思いのかた、あなたは大変に鋭いです。が、しかし。このアナロジーを作ったフィッシャーは、そうした批判に対する予防線をあらかじめ張ってあるのです。「製作者や使用者が意図した最小の動きよりもずっと細かく」の部分がそれ。これによって、先を見通せないという条件をさりげなく追加している。

この条件がなければ、顕微鏡でどっちに動かしたら焦点があったか、みたいな情報を集約していって、それに基づいて行動を決定できるから、ずばっと大きく動かして、いきなりずっと良い状態に持っていくことが可能になり、上記の問いの答えは全然違うものになってしまうわけだ。

こういった話とか進化論とかに関心があるなら、ドーキンスの本は必見でしょう。私の知ってる限りでもう1冊、『虹の解体』という本もあって、全体としてはこっちの方がおもしろい気がします。なんとなく、現存する生物の適応度の高さを強調しすぎている嫌いはあるが(あくまで表現上の問題なんだろうけど、そうは言っても気になる)、きわめて明晰に書かれているし、よい本だと思います。

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

なぜ経済発展はヨーロッパで始まり、他の地域で始まらなかったのか

ヨーロッパの奇跡―環境・経済・地政の比較史

ヨーロッパの奇跡―環境・経済・地政の比較史

なぜ近代化(経済発展)はヨーロッパで始まり、他の地域で始まらなかったのか。

これは、マックス・ウェーバーをはじめとして、多くの社会科学者が取り組んできた問いであり、その中でさまざまな優れた研究成果が生まれてきた。

ただ、私は、この問いの立て方にはなにか違和感があった。

ある反復されない現象X(この場合、近代化)が、地域Aで起きて、地域Bで起きなかったとする。このとき、AにはあってBにはないものの中に、Xが生起するための原因・条件が存在する。

こう考えるとたしかに論理的には正しいのだが、違和感は(1)時系列を無視した議論、(2)地域Aの現象と地域Bの現象が独立であるという仮定、の二つにある。

(1)たしかにある時点で、ヨーロッパは他の地域とは決定的に違う経済発展を遂げたわけであるが(その後、他地域にも波及)、べつにずっと勝ちっぱなしだったわけではない。古代から、社会生活の各領域において、抜いたり抜かれたりのレースを繰り返していたわけである。

その中で、ヨーロッパが勝ち始めた時点(いわゆる近代化の出発点)にのみ注目して、その時点に見られる何らかの要素から今の社会のありようが生まれたかのように語るのは、全体の流れを見失うことにならないか。

ただ単に、17世紀以降ヨーロッパは他地域との戦争に負けていないという理由だけで、現在から逆算していってそこを近代化の起点にしてしまっているのではないか(ホイッグ史観)。

(2)ある反復されない現象XがAで起きたからといって、Xが起きるための条件のすべてが、Aで整備されたとは限らない。ある時点までBで進展していて、それがAにも伝播して、そのあとBの側では停滞した結果、AでXが起きた可能性もある。

荒唐無稽な例で言えば、近代化がなぜヨーロッパで起きたのかと問うことは、他国の自動車の歴史を全て「トヨタ車の開発に至らなかった失敗例」として理解した上で、なぜトヨタ車は日本で開発されたのか、という視点から自動車の全歴史を語るようなものではないか、と思っていた。

というわけで、「プロテスタンティズムの倫理が資本主義を産み出した」的な命題*1には懐疑的であったのだが、『ヨーロッパの奇跡』は、まさにこの種の命題を思わせる大胆な書名にもかかわらず、上述の二つの批判への目配りが行き届いている良い本だと思う。

このテーマで300頁以内に収まっているのも、読むのが面倒にならないという点で、非常に良い。

本書の主張は、産業革命以前の中世の中頃には、ヨーロッパの経済成長はゆっくりと始まっていたということである。災害・飢饉・疫病に対する行政措置の強力さや、専横的でない政治システム(国家の並立)といった点で中世のヨーロッパは優れていて、人口増の伴わない、あるいはそれを上回る生産力の上昇という形の成長はすでに始まっていた。そして、それが帝国による軍事的支配によって崩壊・停滞することもなかった。

「ヨーロッパは遅くとも15世紀には、軍事以外のほとんどすべての領域で[中東に対して]優っていた」(15)。「厳密に経済成長という点からいえば、ヨーロッパは古く西暦1000年から徐々に上向き始めていた」(15)*2

「社会構造も経済構造も変えることなく、海外の資源という恵みを消費してしまうことは、いともたやすいことである。鄭和の遠征は、明の中国を変えはしなかった・・・ヴァイキングさえ北大西洋を渡って航海をしたが、初期のヨーロッパに変化をもたらすことはなかった。変化に柔軟に反応する商業が、中世のヨーロッパにはすでに存在していた。地理上の発見を経済成長に結び付けたのは、実はこうした商業の拡大だったのである。」(22)

産業革命にばかり注目するのは「イギリス中心主義」(11)であって、それを差し引くと、中世の比較的早いうちから、ヨーロッパの成長は始まっていた。

技術の伝播という点で言えば、イスラム世界もオスマン帝国が成立する頃まではしっかり遺産を継承していた。しかし、軍事的支配による帝国のもとでは、他所での技術革新はほとんど導入されなかった(192)。この帝国は軍事的に勝って戦利品を獲ることに依存しすぎていた。

このへんは、日本の戦国時代における武田家(ずっと本国の外で戦争しっぱなし)とやや似ているような。軍事力で富を奪いとる時代から、富が軍事力を産むようになる時代への変化に置いて行かれた、軍事先行型の国家。あまり類似性を強調しすぎるのも良くないが。
http://d.hatena.ne.jp/y_ttis/20070227/1172554617

なんとなくまとめると、

  • 中世の中頃から経済はヨーロッパのほうが良かった。軍事では勝てていなかっただけ。しかしやがて、軍事的に勝てば勝つほどもっと強くなる時代から、経済の強い国が軍事的にも強い時代へ
  • 中国やインド、トルコあたりは14〜18世紀頃、軍事的帝国として支配したり支配されたりして、排外的に技術移入しないでいるうちに、経済面でヨーロッパに置いて行かれた
  • ヨーロッパでは国家が並立し(諸国家併存体制)、その間で商業や情報のやりとりが盛んだったことや、万物(特に基盤的な資本)を破壊する災害・外敵が減ったことが経済発展につながった

*1:短絡的に理解されたマックス・ウェーバーの主張。

*2:これら2つは他の著者の見解を要約している箇所だけど、ジョーンズ自身の主張を端的に表現していると思われる。

男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子である

表題は、2001年2月に科学技術政策研究所(文部科学省の管轄)が「科学技術に関する意識調査」(下記サイトを参照)をした際に、科学技術知識の理解度(リテラシー)を測るために出した設問の一つ。

上の文章は正しいか、間違っているか。

http://www.nistep.go.jp/achiev/abs/jpn/rep072j/rep072aj.html

一般市民のリテラシーを測るためのものなんだから、研究者志望の身としては、まあ正解して当然のような気がするんだけど、この設問はばっちり間違えちゃいました。

いきなり答えを見ずに自分で考えたい人のために(考えるような設問でもないが)、ちょっと関係ない話を書いてから正解に行こう。

このときの設問の中には、他にどんなのがあるか。

政府系の機関が科学技術と言うときには、だいたい原発がらみの話が入ってくるのだが、やっぱりここにも入ってきていて、「すべての放射能は人工的に作られたものである」「放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全だ」の二つ。

これはどっちも誤り。ウランとかは自然界にあるときから放射線を出してるし、放射線は細菌じゃないんだから、熱してもどうにもならない。

前者の設問だけだと原発推進イデオロギーがあまりにも強すぎるから、後者の設問も入れてバランスをとろうとしてる雰囲気だね。

で、ほんとにこれで大丈夫なのかという気がするのは、「宇宙は巨大な爆発によって始まった」という設問。

これはビッグバンの話をさしていて、当然のことながら正解扱いなのだが、さすがにやばくないですかねえ。

ビッグバン理論は広く受け入れられているみたいだから、これが後に全面修正される可能性は考慮に入れなくてよさそうだけど、「ビッグバン」というのは単なるメタファーなのだから、ビッグバン理論を採用したからといって、「宇宙は巨大な爆発によって始まった」という言い方はどうなのか。

よくは知らないけど、ビッグバン理論というのは、現在の宇宙は過去のある時点で、果てしなく高温・高密度の状態から急速に拡大して成立した、という理論。でも、それを現世の爆発現象に結びつけたのはしゃれた表現でしかないよねえ。ましてや巨大ってなんじゃらほい。だから、宇宙は巨大な爆発によって始まったと書くのは問題があるのではないか。

まあ、ビッグバンを知っている人は「正しい」と答えるだろうから、リテラシーをチェックする上では十分な設問と言えるかもしれないけど。

ちなみに、ビックバン理論の理論的対抗馬(これがなければただの形而上学である)は、定常宇宙論らしい。

で、「宇宙が膨張している」ことは基本的に両者が共有している前提で、対立軸は、宇宙が膨張しつつも時間的に不変なのか(そのためには密度を一定に保つために、つねに新しく物質が生成していなければならない)、元素が合成された宇宙の始まりの段階というのがあるのか、という点らしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%B8%B8%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96

うーん、宇宙論は数学的/定量的議論を伴わないと、浮き石だらけの言葉遊びになるなあ。くわばらくわばら。

◆◆◆

話を戻そう。「男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子である」か、否か。

正解は○です。男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子である。

なぜかといえば、学校の生物の授業で習ったように、男と女を決めるのは性染色体であり、これがXYだと男で、XXだと女である。性染色体異常も考慮に入れて、より厳密にいえば、Yが入っていれば男で、入っていなければ女。

で、性染色体は両親から一本ずつもらうから、男になるのは、父親からYの染色体をもらった場合であり、だから男か女になるかを決めるのは父親由来の染色体と言える。

ここで遺伝情報は、性染色体を含めた染色体が内蔵しているものだから(下記サイト参照)、染色体によって決まることを「遺伝子によって決まる」と書いても、まあ問題ない。よって、上の記述は正しい、となる。

http://www.aist.go.jp/aist_j/dream_lab/mame/01.html

ちなみに、染色体に遺伝情報が入っていることを示したのはモルガンたち。ショウジョウバエを使って遺伝的な特徴の遺伝と性比の関係を分析し、性染色体が遺伝情報を運んでいると考えると計算が合うことを示した。

以上がこの問題がらみの事実関係なのだが、正直この設問を見たとき、性染色体なんて話は全然思い出せなかった。それで、「父親の遺伝子によって子供の性別が決まる」というのを、父親の遺伝子には幾つかのバリエーションがあって、それらのバリエーションによって子供の性別が決まる、というトンデモ主張だと思い、×にしてしまった。

実際のところ、子供の性別は父親の遺伝情報によって決まるというよりは、どういう精子が受精するかによって決まるのだから、この設問はせめて「父親の遺伝子」ではなく、「父親のどの精子が受精するかで決まる」にしてほしかったと思うけど、残念ながら負け犬の遠吠えかもしれない。

でも、この分野の専門家は「遺伝子」「DNA」「遺伝」「遺伝学的」みたいなのの区別にこだわってる気がするので*1、あいまいなのはやっぱり良くないと思うんだけどなあ。

◆◆◆

子供の性別決定についてもう少し書いておくか。ちょっと学術的に信用できるサイトが見つからなかったので、まゆつばの可能性もあって、あまり自信はないけど。

性別決定においては父親の精子が重要なのは上に書いたとおりだけど、具体的には、父親の精子のもともとの性質と、精子が泳ぐ母体内の環境の二つが重要。(だから、どっちを強調するかはその人の政治的姿勢による部分が大きい)

個々の精子は始めから、男になるべき精子と女になるべき精子に分かれている。そして両者は、酸性/アルカリ性への耐性や平均重量など、幾つかの点で異なる特徴を持っている。

人工受精の場合は、この性質を利用して片方の性別の精子を減らすことで、ある程度産み分けることが可能。慶応大が開発したけど、現在は産みわけ技術として認められていない「パーコール法」は、精子を重量によって分離することで、女の子が産まれる可能性を高めることができる。

他にも、人工受精の場合は、いろんな液体を使って産みわけできるし、受精した後で受精卵を調べればもっと話は早いから(これも認められていない)、技術的には100%の産みわけができる。

普通の受精の場合は、男精子と女精子を分離することはできないが、母体内を酸性にしたりアルカリ性にしたりして、ある程度は産みわけの可能性を高めることができるらしい。たとえば、母親がリン酸カルシウムを飲んでいると子供は男になる可能性が高いんだそうな。他にも、こういうものを食べると女の子になるとかいう噂もあるけど、このへんまで来るとさすがにウソの可能性が高そう。

*1:遺伝子の異常(たとえば癌)が遺伝による/遺伝するとは限らないとか、遺伝病の検査をするのにDNAを調べるとは限らないとか。